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紫苑が呼んだ辻馬車に雨龍と和戸村が乗り込む。やはり紫苑は同行するつもりは無いらしく、そこに立ったままだった。
「何をしているのかね、紫苑君?」
馬車の扉を閉めようとする紫苑に雨龍が声をかける。
「言ったろ、先生。俺は別行動」
「僕も常日頃から言っているだろう? 自分の可能性を狭めてはならない。探偵に必要な「三つの目」を養いたまえ、とね」
「で、でも……」
「僕はね、紫苑君。無駄な事は嫌いなのだよ。さっさと乗りたまえ」
それでもまだ逡巡している紫苑に雨龍が眉を顰めて溜息をつく。
「やれやれ。それでも僕の助手かね……まったく」
言うや否や傍らのステッキを掴み、その握りの部分を器用に紫苑の手首に引っ掛けてグイと引く。
「う、わわっ」
「ちょ、危ない!」
つんのめる紫苑の襟首を咄嗟に和戸村が掴む。そして、そのままの勢いで馬車へと引き摺り込んだ。
「行ってくれたまえ」
雨龍が馬車の壁をノックし、和戸村が馬車の扉を閉めると馬車は待ちかねた様に走り出した。
「やれやれ、手間のかかる。おかげで7分も時間を無駄にしてしまった」
「……ごめん。でも」
「君が白い目で見られたとして。それで君の何が変わるというのだね? 僕達が同じ目で見られたとして。それで僕達の何が揺らぐというのかね?」
「先生……」
雨龍は窓枠に頬杖をつき、その長身を少しばかり傾げて紫苑を見る。
「やれやれ。君は未だ凡人の枠に囚われているのだね、紫苑君。いいかね? 人の本質というモノは変わらない、変えられない。過去と同じ様にね。だが性質は本人次第で変える事が可能なのだよ。いいかね、紫苑君。変えるのは他人ではない、自分自身なのだ。他人の意見に惑わされて本質を見失うのは愚者のする事だ。そして見失った本質の代わりに性質を仮初の本質へと摩り替えてしまう」
狭い馬車の中、ゴトゴトと揺れる車内に雨龍の言葉が満ちていく。
「だが所詮は仮初に過ぎない。それを現実にしてしまうのは愚行に過ぎると、そうは思わんかね、紫苑君」
紫苑は俯いたまま答えない。雨龍の手がそっとハンチング帽の上に乗った。
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