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いつしか青年は波打ち際で足を止め、闇色をした海に映える月を眺めていた。静寂を打ち砕く、波の音。規則正しく打ち寄せるそれは、永遠を感じさせる。古より繰り返されてきたであろう、その音。時には叱咤し、時には慰めるそれは大いなる自然の泰然たる力だ。
ふと、青年が辺りを見回す。その耳に波の音とは異なる水の音が届いたからだ。
(犬が水浴びでもしているのだろうか)
月に見惚れた所為か、ぼんやりとした頭でそう洩らす。だが、視線を巡らせた青年は息をのんだ。
(――ッ人……入水か?)
その者の風貌までは見えない。だが、不規則に乱れた水音と、結われていない長い髪だけは見てとれた。明るい夜だからこそ、その影は濃い。
今宵は月夜。まばゆい光は、同時に、果てしない闇を生む。
独りで夜の海を眺めていると、海に棲む美しき魔物に心を奪われるという。美しい歌声に酔い、死の甘い誘いに屈してしまう。では、この者もそうであるというのか。魔性に魅せられ、我を忘れ、今まさに己が命を自らの手で絶たんとしているのか。
考えるより先に、青年の体は動いていた。
「おい! 馬鹿な真似はよせっっ!」
着物が濡れることなど気にもとめず、青年はその身を海へ投じた。必死でその細腕を掴む。放心の体で、全身から水を滴らせるその者は少女だった。
「目を覚ませ! 何故このようなことをするのだッ!」
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