第43話(4)

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 しかし、浴槽内の階段に足をかけようとしたところで、絶妙のタイミングで南郷が切り出した。 「――あんたがひっくり返ったおかげで話すどころじゃなくなったが、さっき俺が言ったこと、真剣に考えてくれ」  なんのことかと問い返す度胸はなかった。和彦は眉をひそめて、吐き出すように告げる。 「あなたと暮らすなんて、ぼくが受け入れるはずがないでしょうっ……」 「総和会と長嶺組の融和のためだとしたら?」 「……そういう話は、ぼくじゃなく、長嶺組組長と総和会会長がするべきです」  突然、カランと音がして、和彦は身を竦める。屈んでいた南郷が風呂桶を放り投げ、ゆらりと立ち上がった。素早く動けば逃げられたかもしれないが、百足を見せつけるようにして浴槽に入ってくる南郷に対して、無防備な姿を晒したまま和彦は何もできなかった。 「言い方を変えよう。あんたと協力関係を結びたいんだ。俺は、総和会の中での長嶺組の立場を守りたい。あんたは、長嶺組長の立場を守りたい。結果としてそれが、総和会と長嶺組のためになる。そう思わないか? いがみ合ったところで益はない」 「だから、あなたのオンナになれと?」 「いいや。あんたは昨夜、俺のオンナになった。そう言っただろ」  和彦は急いで湯から出ようとしたが、派手な水音を立てながら南郷が歩み寄り、手首を掴まれた。顔を強張らせる和彦に、南郷は獰猛な笑みを向けてくる。 「まだ自覚がないようだな、先生。かつては長嶺組長も、あんたをオンナとして躾けてきたんだろ。だったら俺も、そうしないと」  協力関係を結びたいと言いながら、南郷は平然と恫喝じみたことを口にする。  和彦は手を振り払おうとしたが、反対に引っ張られてバランスを崩す。しかも南郷に足元を払われて、湯の中に倒れ込んでいた。溺れかけ、慌てて体勢を立て直したものの、湯が気管に入って咳き込む。そんな和彦を、南郷はじっと見下ろしていた。 「――俺の前でよく転ぶな、先生」  苦しい息の下、和彦は南郷を非難しようとする。 「それはあなたがっ……」 「危なっかしい。俺が側にいて、しっかりとあんたを守ってやらないと」  こう言われたとき、和彦の視界に嫌でも入ったのは、南郷の脇腹にいる百足だった。次に、南郷の体の変化に気づく。  和彦は短く悲鳴を上げると、湯の中を這うようにして逃げようとしたが、あっという間に首の後ろを南郷に掴まれて動けなくなる。首にがっちりと指が食い込み、顔を湯に押し付けられそうな危機感を持った。  和彦の体の強張りがわかったらしく、南郷は芝居がかった優しげな声で語りかけてくる。 「まだ俺という男を誤解しているな、先生。俺は、手荒なまねはしない。昨夜言ったとおり、あんたによく尽くし、よく支え、よく愛す。だからあんたは、俺に笑った顔を見せてくれ」  南郷が傍らに屈み込み、和彦は顔を上げさせられる。何をされるかわかっていたが、また湯に沈められるのではないかと思うと、後退ることもできなかった。
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