第2話 カレーと僕《過去編》

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 カレー皿の中でじゃかいも、にんじん、たまねぎ、サイコロ状に切られた肉が少し型崩れした姿で茶色いスープから顔を出している。カレースープは光沢を帯びて、時折黄金色に輝いては食欲をそそる香りを漂わせていた。スパイスの中に隠れるようにほんの少しだけ覗くトマトの匂い。富田のことを思い出して、思わず顔を背ける。だが、母はスプーンを無理やり持たせて、カレーを掬わせた。 「食べなさい。生きるために、食べなさい」  その瞬間、なぜだかお腹に急激な違和感を覚えた。空腹が刺激されて、お腹がぐるぐると音をたてる。カレーの匂いに身体が反応しているのだ。けれど、僕はーー。耐えるようにぐっと目を瞑って、空腹を意識から押しやろうとしたその時、肩に温かいぬくもりが触れた。 「大丈夫だ」  快活で、でも優しさが滲み出たその声はーー。はっとして、すぐさま振り向く。そこにあったのは、在りし日の面影を映した富田の姿だった。スプーンごと僕の手を握りしめる母の隣にニカッと笑って彼は立っていた。目が合うと、「大丈夫だ」とまた力強くつぶやいて頷く。祈るような母の表情と、彼の頼もしい微笑みが、同じタイミングで頷く。 「大丈夫だ」  もう一度、彼が言う。その声に後押しされて、僕はスプーンを口に含んだ。口の中で辛味とあたたかさが広がって、鼻孔をスパイスの香りが貫く。煮込みすぎた具材たちが一噛みすると、すぐにほろほろとほどける。スープに絡まった白米がするりと喉を通り抜ける。  おいしい。素直にそう思えたことに、嬉しさが込み上げる。一口、二口、続けてスプーンを運んで、口の中をカレーでいっぱいにする。ごくんと飲み込んで、また掬い上げる。  ずっと怖かった。彼の人生には僕よりももっともっと輝かしい未来が待っていた。きっと誰よりも生きるべきだった。なのに、誰からも必要とされていない僕が生きている。罪悪感に打ちのめされて、ついには身体が食べ物を受け付けなくなった。今度こそ自分は本当にいらない人間になってしまったんじゃないかと、次に何か食べてまた吐いてしまったらと思うと怖くて、とうとう何も口にすることができなくなった。  けれど、富田が大丈夫だと言ってくれた。背中を押してくれた。カレーがおいしいと思えた時。「生きろ」彼がそう言ってくれたような気がしたのだ。  僕にできることは、悲しみに暮れて鬱々と過ごすことでも、身体を明け渡すことでもない。彼の生きられなかった分も、強く生きることだ。彼の代わりにはなれるはずもないけれど、それでも生きて、生き抜いて、そうすればきっと、それが彼のためになるはずだ。彼のように、誰かを助けられる人になれるはずだ。  一口、もう一口と食べるごとに、嬉しさ、悲しさ、後悔、希望、いろんな感情が混ざり合って胸の中でごちゃまぜになって、涙が溢れる。ぼとり、ぼとりと落ちる雫がトマトの酸味を助長する。大粒の涙を流しながら、僕は無心でカレーを頬張った。辛くて、あたたかくて、ちょっぴり酸っぱい。この味を一生忘れないでおこうと心に誓いながら、僕はひたすらカレーを食べ続けた。
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