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入口を見やると、下級生であろう男子がドアの陰から遠慮がちにこちらを覗いていた。その男子は目が合うと控えめに中に入ってきて、おずおずとベッドの脇に立った。
「あの……これ」
そう言って男子は、両手で握っていたものを差し出した。その手には僕のスマホが握られていた。だが、液晶画面はひび割れており、なんだか異臭もする。
「あの……さっきはありがとうございました」
男子はそう言って深々と頭を下げてきたが、僕はこの男子にまったく見覚えがなかった。思い出そうとしてみるが、手元のスマホの匂いも相まって気持ち悪くなってくる。
「さっきって言ってたけど、今日彼と会ったのね?」
瀬古先生の問いに、男子は無言で頷く。彼は僕が記憶を失った原因を知っているかもしれない。期待を込めて、僕は問いをぶつけた。
「俺は何をしたか、話してくれないか?」
男子はひとつ間をおいてから「はい」と小さな声で返事をして、言葉を続けた。
「からまれてたところを助けてもらいました。途中で逃げてしまって何が起こったかはわからないんですけど……やっぱり気になって戻ってきたら、吐いた跡とスマホが落ちてて……」
まったく身に覚えがないことに、胸の奥がざわついて落ち着かなくなる。先ほどのように瞬間的に映像が流れてくる予感もしない。何より自分がそんなことをしたとは思えなかった。
「広が!! そんなことを!!」
梅沢がまたオーバーに驚き、竹本も少し目を瞠った。そんな表情されなくても、僕だって自分でわかっている。
「ヤンキー映画観ただけで吐くほど暴力系ダメなのに!?」
返す言葉もなかった。僕はそういう事は避けて通っていたし、どうしてもあの日を思い出してしまうのだ。自分でもなぜそんな行動に出たのかわからない。
「あの、苦手なのにわざわざ助けてくれて本当に、ありがとうございます」
また男子は深々と頭を下げてくる。身に覚えがないのにこんなにお礼を言われると、なんだか心苦しくなってきた。
「あ、いや、俺はなんで君……名前なんだっけ?」
「三田、です」
男子がそう言った瞬間、頭の中の白紙に次々と今日一日の出来事が描かれていった。
「あ」
思わずこぼれた一言が、白紙に垂れて茶色から黒へ、時間を巻き戻すみたいに記憶は色濃く鮮明になっていく。じわじわと蘇る記憶に、知ってしまうのが怖いと思いながらも、僕はそこから目が離せないでいた。
まただ。カレーの匂いが鼻孔に充満する。導かれるように、その匂いはあの日の面影を否応なしに突きつけてくる。そうして思考はカレーの後味とともに、あの頃の記憶に引きずり込まれた。
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