揺れる五夜

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明義に貰った地図を見ながら歩く。 事務所から駅4つ移動した下町と呼ばれる小さな街。 駅の高架下ではまだ夕方前だと言うのにくたびれたスーツを着た中年男性達が肩を並べて酒を飲んでいる。 その様子を横目で見て、地図に視線を落とす。すぐ近くの商店街の中に目的の場所があるらしい。 地図をもう一度確認し、紫音は足を早めた。 「こんにちは…」 買い物をする主婦たちの視線を受け流しながら辿り着いた目的地は小さな花屋だった。 店先にはシキミが溢れるほどに幾つものバケツに入れられ並べられている。 その奥には色とりどりの菊、その奥には選ばなくてもいいような出来合いの花束が幾つも作り置きされていた。 近くに寺や墓があるのだろうか。それとも年配の客が多いのか。 薄暗い店の奥から明るい声が応えた。 「はい、こんにちは!どんなお花を?」 出てきた女性はお腹が大きくせり出し上体を後ろに反るように歩いてくる。 その後ろから慌てて彼女を追い掛けるように走り出てきた男性が紫音を見て軽く頭を下げた。 「おい、あんまり激しく動くな」 「大丈夫よ、心配性なんだからお兄ちゃんは」 てっきり夫婦だと思った2人は兄妹だった。 「あ、いえ、客ではないんです。佐伯デザインから来ました佐伯と申します」 紫音がそう言い頭を下げると前に並んだ二人も習ったように頭を下げた。 「こちらの書類を預かってきました」 妹よりも先に兄が手を出し封筒を受け取る。 「デザイン会社に何の仕事を頼んだんだ」 「ほら、お義父さんが倒れる前に言ってたって話したでしょ。駅前の大きなスーパーの中に小綺麗な花屋が出来るから宣伝しないと、って」 「ああ……」 この小さな花屋の抱える事情などどうでもいい。 請け負った仕事を全うできた。 それならもう用事はない。 「それでは、私はこれで失礼致します」 紫音は頭を下げ店を出た。 来た時と同じく主婦たちの視線を流しながら商店街を歩いていると突然腕が掴まれた。 「あの、駅まで一緒に」 息を切らし紫音にそう言ったのは花屋で会った兄だった。 「あら、笹本先生、今日はもうお帰り?」 顔馴染みだろうか、買い物袋を持ったおばさんが兄を見て声を掛ける。 適当に答えを返しながら兄が紫音の背中をそっと押す。 あくまでも表面はにこやかにしながら挨拶をしその場から離れると兄は軽くため息をついた。 「先生、なんですか」 紫音の問いに兄がふふっと噴き出すように笑った。 「あれは皮肉だよ。まあ一応議員の端くれだけど、早くお父様のように立派な議員になりなさいって嫌味」 「議員……」 「笹本慶一って知らない?」 「あっ…」 「俺の親父」 交通大臣と呼ばれる笹本慶一。その息子。 紫音の背中がぞわりと波打った。 「ねぇ、君、男もイケるだろう?大事にするから俺の愛人にならない?」 さっきにこやかに挨拶をしたのと同じ笑みを浮かべながら笹本がさらりと言った。 「最後まで…」 「え?」 「挿入しない、過去から現在まで私の全てに干渉詮索しないと約束できるなら……愛人になってあげてもいいですよ」 紫音は唇の端を僅かに上げて微笑む。 本当に欲しい人は望めない。 それならせいぜいあの人の代わりになってもらう。 もちろん代わりになどなれはしないけれど。 誰かに抱かれ触れられている間は夢を見られる。 そんなこと起こりはしないのに、あの人が触れるならこんな風に触れるのか、こんな情熱的に身体を開かせるのか、こんな風に舌を指をこの身体に這わせるのか、 こんな声で愛を囁くのか…… あなたを忘れるために他の男に抱かれるのか、 あなたを忘れないために身体を開くのか、 もうそれすら僕にもわからないんだ…… 自分から逃げ出しといていつまでも未練がましい。 もやもやとする気持ちを振り払うかのように紫音は笹本の顎に手を伸ばした。 「大事に………してくださいね」 取り出された名刺を受け取ると紫音は笹本の胸ポケットに刺さっているボールペンをすらりと抜いた。 名刺の裏に自分の携帯番号を書くとそれをボールペンと共に笹本の手に戻す。 もう一度顎を撫で、唇のすぐ横にキスをすると紫音はそのまま何も言わず笹本の前から立ち去った。 笹本から連絡が来たのは次の日の夕方前だった。
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