第二部 大名編  第二回 秀吉台頭

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①山崎の戦い 時代は乱世。為信にとって本能寺の変は、どこぞの大大名が死んだというだけで直接的な影響は無い。しかし、乱世は急速に終わりを迎えようとしていた。 織田信長の家臣で中国方面軍を指揮していた羽柴秀吉は、本能寺の変の情報を得ると毛利輝元と講和。中国大返しと呼ばれる行軍を行い、更には四国方面軍や明智光秀の与力達を軍に引き入れ、京都に攻め上る。 対して、織田信長を討ち取った明智光秀は、予定通りに軍勢を揃えられないまま、羽柴秀吉軍を迎え撃つ。 6月13日、両軍が山崎で激突。戦いは羽柴秀吉軍の圧勝。本能寺の変から11日後のことだった。その後、明智光秀は残党狩りで討ち取られた。 6月27日、清洲会議。 織田信長の嫡男信忠は、本能寺の変の際に自刃。織田家は次男信雄派と三男信孝派で対立。 会議では、織田家の家督を3歳の三法師が継承、その後見を信孝が務めることに決まったが、遺恨を残した。 羽柴秀吉は、遺領分割の結果、織田家中で一番の武力と財力を手に入れた。
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