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そして、あの時大声で泣き叫びながら母に決別することができなかったから、たぶんそれでこの歳になっても心の片隅にずっと母の死を引きずっている。本当はあの時母と一緒に死ぬのが自分の運命だったのではないか、という疑いをぬぐい切れない。
絵理子は布団の中で右脚をさすりながら、皮膚がすべらかに感じられることにほっと安心した。少なくとも、醜い手術の痕は時の経過とともに薄れてくれた。そして母の死という心の痛みも風化してくれていいはずなのに、十二年もたった今になっても、あの事故の夢を見る。
母を忘れるなと無意識に自分を戒めているのだろうか。脚を少し引きずるようなびっこが残ったのだから、あの事故と母の死を忘れることなど生涯ないに違いない。そうだとすると、あの夢は死に損ねた自分にいったい何を思い起こさせようというのだろう。
考えに耽っていると、襖を開ける音とともに伯母ちゃんが威勢良く入って来た。大伯母のことを絵理子は、伯母ちゃん、と呼んでいる。
「絵理ちゃん、もう起きなさい」
「伯母ちゃん、もうちょっと寝かせて。夕べ遅かったんだ」
絵理子はベッドの上で布団を襟元まで引っ張りあげながら生返事をした。
「絵理ちゃん、朝からバイトがあるって言っていたじゃない。ちゃんと朝ご飯を食べてから行かなきゃ駄目よ」
六畳間のカーテンを伯母ちゃんがたぐり寄せると、朝の光が部屋いっぱいに差し込んできた。眩しさに手を眼の上にかざしながら、絵理子は伯母ちゃんの後ろ姿が少し痩せたように思った。
背を向けている腰の輪郭が光に縁取られ、いやに細く見える。伯母ちゃんのエプロンの後ろの紐は、いつも左右がきちんと同じ大きさの綺麗な蝶々結びだ。
母が亡くなった時にすでに七十歳だった伯母ちゃんは、先月の誕生日で八十二歳になった。
昔は区立小学校で家庭科を教えていたそうで、年金で細々と一人暮らしをしていたところに行き来もなかった絵理子の母が突然亡くなり、親戚には他に手頃な人も見当たらなかったため伯母ちゃんに引き取られることになった。
十歳の時病院で初めて逢った際、絵理子は伯母ちゃんをおっかないと感じたものだ。髪の毛は頭の上で団子のように丸められ、眼鏡を掛けた神経質そうな風貌の伯母ちゃんは、学校の教頭先生のごとき威厳を持った顔で絵理子を見つめた。
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