3450人が本棚に入れています
本棚に追加
/700ページ
スラックスのポケットに手を突っ込んだ組長は、どこか楽しげな表情で中庭に視線を向ける。気候が穏やかな間、本宅を訪れた和彦はよく中庭に出ては、のんびりとお茶を飲んでいた。そんな和彦を、組長が今のような表情を浮かべて眺めていたことを、久保は知っている。
「小難しい理由はない。先生はごくたまに、気が向いたときだけ俺にコーヒーを淹れてくれる。それが美味くてな。だから欲が出て、俺が気に入っている豆で淹れて欲しいと思ったんだ」
「……組長が直接おっしゃれば、先生は淹れてくれるのでは――」
「あの先生は俺に対しては素っ気ないが、どうしてだか、俺の組の組員たちには、優しいんだ。俺が、この豆でコーヒーを淹れろと言ったら、露骨に嫌そうな顔をするのは目に見えている。だけどお前が頼んだら……素直に淹れてくれただろ?」
まさにその通りだったので、久保は頷く。
組長ほどの人でも、あの優しげな先生を相手に駆け引きをする必要があるらしい。
久保は、今朝和彦から聞かされた話をしたい衝動に駆られたが、大人の男同士――ヤクザの組長と医者との駆け引きに不粋なマネはしてはいけないと考え直す。
「俺が部屋に行ったとき、先生は新しい豆でコーヒーを淹れてくれるかどうか、今から楽しみだ」
そう洩らした組長は、もう一度久保の肩を軽く叩いて、何事もなかったように立ち去る。
久保は広い背を見送りながら、漠然とこんなことを考えていた。
最初のコメントを投稿しよう!