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彼からは珈琲の匂いがいつもした。
珈琲が好きなのか、知らないが。
珈琲を飲んでいる彼を、私は見たことがない。
そもそも、話しかけたこともない―
「今日は」
明るい声がした。
それは紛れもなく、彼のものだった。
私に話しかけているわけではない。
私の友人に、話しかけているのだ。
「今日の授業?嗚呼、そうだったね。君は確か3年3組の…」
にこにこと話しているのが羨ましかった。
なにも関係はなくても。彼が私のことを覚えてなくても。
彼とは1度だけ、話したことがある。
確かそれは一年前の夏。
彼に助けてもらったのだ。
部活のランニング中に足をくじき、なんとか昇降口まで行ったものの、人が一人もいず、どうしようかと路頭に迷っていたときだった。
「君ー、大丈夫?」
間延びした声。
そこには彼がいた。
昇降口の入り口から顔を出して、私に聞いたのだ。
でも私は、なにも言えなかった。
黙り込んでいると、彼は私のところに来て。
「君。怪我してるの?」
「え…?」
「やっぱりね、この足。赤く腫れてるよ。
ほら、今日は先生、俺ともう一人しかいないから。
手当てするから、こっちおいで?」
彼は私に手をさしのべた。
私は彼の手を握って、立ち上がった。
鈍い痛みが、足を襲った。
ぐらり、と揺れる体。
「大丈夫?」
彼は心配そうな顔でそういった。
こくり、と頷くと、彼はふんわりと笑った。
そして、保健室で手当てをしてもらった。
「はい。出来ました。安静にしなきゃダメだよ?」
「…ありがとう、ございます」
「あ、やっと喋ってくれた。」
彼はにっこりと笑った。
それが私の―彼に、惚れた理由だ。
でも、それから話すことはなかった。
話せなかった。もっと話したいのに。
私はいつも、そう…。
今だってそうだ。
見てるだけ。それ以上のことが、できない。
私が話しかけたって、彼は嬉しくない。
むしろきっと、気味悪がれる。
「先生、ありがとうございました」
「授業連絡、よろしくね」
明るい声。いいなぁ、としか思えなかった。
私は2人に背を向けて、友人を待つ。
でも、いつまで経っても友人は来なかった。
すると。
「木田さん」
と、私のことを呼んだ声がした。
それは、彼―先生、だった。
「話、しませんか?」
彼が、私のところに来てにっこりと笑った。
ふんわりと香るこの匂いは―そう。
珈琲の香りだ。
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