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私の前を行く奏多さんも彼に気付いたみたいで、その背中から緊張が伝わってくる。お気軽に声をかける関係でもないから、無言ですれ違うのみだけれど。
栗色の彼と同じ段に足を置くと、私とは頭一つ分くらいの身長差があった。
目が合った。礼儀として目礼して、私はさっさと下へ――。
「ダメだよ」
びく。
穏やかな声に、足が止まる。
振り返ると彼もまた足を止めていて、一段高いところから私を見下ろしていた。
「行っちゃダメ」
まるで私たちの向かう先を、わかっているみたいに。
「……――、」
何か言おうと口を開くと「みやちゃーん!」と呼ぶ声がして、私は彼に背を向けた。あちらもあちらの友人に呼ばれて「んー」と気怠そうな声を返していた。後ろ髪が引かれるようで再び彼の方を見てみたけれど、彼はもう階段を上がりきってしまって、その背はすぐに視界から消えた。
行っちゃ、だめ。
その言葉が気にかかって、私はまた足を止めてしまう。
「……あの」
「うん?」
「私、やっぱりあの屋敷には――」
「みやちゃん」
ふ、と。目の前に影がかかる。
潜められた声は近く感じた。
「お願い。ね?」
顔を覗き込んできた彼女の瞳は、硝子のようだった。
こめかみからじっとりと伝った汗は、頬を滑って落ちる。
眼鏡のレンズを一枚挟んで、瞬き一つしない瞳に映し込まれた私は、固まっているばかりだった。誰かが自動販売機で飲料水のボタンを押した。ジョギングをする主婦の荒い息遣いも傍を通り過ぎた。いつもの喧騒が嫌に遠い。
じいじいじいじい、アブラ蝉の声がする。
九月一日、夏休み明け。夏の暑さはまだ続く。
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