ドロップ

5/10
前へ
/115ページ
次へ
 呼びかけても反応のないその足に、恐る恐る近づく。  ちょうどテーブルの陰になる場所に、丸まった背中が見えた。制服じゃないシャツが埃で汚れている。その背中は、小刻みに震えていた。  肩に手をかけても、反応がない。乱暴に揺すって抱き起こしたら、涙でぐちゃぐちゃに濡れた海老沢の顔がやっと見えた。 「海老沢!」  正面から呼びかけても、目が合わない。見開いた目から涙を流しながら、海老沢の瞳は何も映していなかった。  唇を引き結んで、口をきかない。  完全な、「Subドロップ」だった。  服は乱れていない。床に転がっていたせいで汚れてはいるが、脱がされた形跡はない。  尺らせただけ。  それでも充分腹立だしいが、多分あいつの言葉に嘘はない。  でもきっと、海老沢はひどい恐怖を感じただろう。  セーフワードがないと、SubはDomに逆らえない。何をされても、拒否できない。  海老沢が感じた恐怖を思うと、あの男の罪は、実際にさせたこと以上に、重い。  生まれついた性質を一方的に利用されたその状態は、Subにとっては恐ろしいストレスで。その極限状態に置かれたSubに残された最後の自衛手段が、ドロップだ。  全てを遮断して、無意識下に堕ちる。何にも従わず、何も受け入れない。  自衛と言っても、それは諸刃の剣で。長い間そのまま放置されたら、一生そこから抜けられなくなる。  早く引き上げてやらないと、海老沢の心はそのまま、壊れてしまう。 なんでこんなことになったんだよ……っ !!  オレは人形みたいに反応のない海老沢を腕に抱いて、痛むほど奥歯を噛み締めた。  この状態で家に帰すわけにいかないから、オレはとりあえず海老沢をうちに連れて帰った。  海老沢は、立たせてやれば立ち、手を引けば歩いた。いつのまにか涙は止まり、何も見ていないような目はぼんやりと世界を映し始めたようだ。  表情はないまま、話しかければ聞こえているらしいことだけは、緩慢な目の動きで分かるようになった。  ただ、何を聞いても返事はない。  白くなるほど強く唇を噛んだまま、一言も口をきかなかった。  オレの部屋の、いつものベッド。そこに座るように促すと、海老沢は言われたとおりにゆっくりと腰を下ろした。  オレのことが、分かっているのかどうかも分からない。抵抗せずについて来たけど、ただ流されているだけかもしれない。  現に海老沢は、怯えたような目でオレを見ていた。  さっきから、気になっていたことがある。  外にいるときには、空気にいろんな匂いが混ざっていて、確信が持てなかった。  でも。  自分の部屋に戻ってきて、その違和感は益々強くなっていた。  唇を引きむすんだ海老沢の、鼻から吐く息に、異様な匂いがする。 「尺らせただけ」「時間がかかって」そう言ったあいつの言い分からして、口で最後までさせたんだろう。それを飲まされたのなら、胃からその匂いが上がってくるのもわかる。  でもそれが、こんなにいつまでも匂うものだろうか……?
/115ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4157人が本棚に入れています
本棚に追加