〔3〕人は歴史を自分の意図で選り分けている。 

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 また、歴史とはもちろんそのまま「現実としてある」わけではない。要するに歴史とは、それを見る者または語る者によって「現実から選り分けられ、ある意図をもって繋ぎ合わされた、出来事の表象の束」であるように、一般に考えることができる。  言い方を換えれば、一般に考えられている歴史とは、「結末から書かれた物語」のようなものだと言えるかもしれない。現在を結末として、その結末にいたる過程を、その結末=現在の現状に矛盾しないことを規準に「選り分けられた出来事」を積み重ねて描かれた「物語」がすなわち「歴史」である、と。  選り分け方すなわち『解釈』が違えば、書かれる物語そのものが違う。ある物語においては主人公であったはずの登場人物が、別の物語のなかでは端役でさえなく、それどころか出番すら回ってこないこともある。また、一方の物語では重大な事件として取り扱われるような出来事が、別の話ではそんなことは起こってすらいないかのようになっているということもある。もちろん、共通の登場人物や出来事が、別々の物語において共有されていることも当然多いのだろうが、しかしそのそれぞれの物語の結末の違いによって、「同じ人物や出来事」であっても、その位置づけや取り扱われ方が違ってくることはよくある話である。たとえば新撰組が主人公の物語ならば、西郷隆盛や大久保利通などは悪役として扱われるだろうが、逆に尊皇攘夷の志士たちを主人公にすれば、今度は新撰組が残虐非道な愚連隊のように描かれることになる。要するに、「それぞれの物語を見る、または語る立場」からそれぞれ別の視点で、それらの登場人物や出来事を見ている、あるいは語っているのであり、結局のところそれは、「それぞれ別々の立場においては、それぞれ別の出来事となり登場人物となる」のである。
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