〔3〕人は歴史を自分の意図で選り分けている。 

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 ヘーゲルは、「理性の支配が世界の究極目的である」とし、そしてそれは「キリスト教的和解を原理としている」というようなことを言っている(「歴史哲学講義」)。『世界史』とはすなわちその「理性の支配による和解の実現が、ゲルマン的世界において達成されるまでの過程を記述するもの」なのだとする。  しかしもし、そのような「キリスト教的和解を、世界の究極目的とする」というならば、それはむしろ「世界が作られたそのときに、すでに達成されている」と考えるべきではないか。「キリスト教的に考える」ならば、そもそも『世界』とは、そのように作られたものなのだから。ところが人間は、「それが達成された後に、その達成された世界の中に生まれた」ために、「その達成の経験を、現実のもの=自らのものとしてはいない」ので、ゆえにその達成を「実感できないでいる」のだ、とも考えることができる。つまり人間にとって『世界』は、彼らが誕生する以前からあったものとしてしか「現実的に経験することができない」ものなのだ、というように。しかし、世界に何らかの目的=理由があるとすれば、それを「証明することができなければならない」と人間は考えた。そして、彼らの生きている現在が、その世界の目的=理由の達成であるならば、「この現在にいたる現実的な経験を、その世界の目的=理由に還元できる」と考えた。『歴史』とは要するに、そのように見出されたもの、いや「作り出されたもの」ではないのだろうか?
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