〔4〕人は歴史を同一地平の出来事として同時に見る。

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 とはいえ、それでも「歴史は必要だ」と言える。その歴史において一体何が「見られていない」のか「語られていない」のかを知るためには、ぜひとも「見られ語られた歴史」というものが必要である。歴史において見られていないもの、あるいは語られていないことを見つけ出すことは、客観的な事実という概念に閉じ込められている「事実そのもの」を解放することであり、そのような歴史という『概念』なる氷の城に幽閉されている孤独から、事実の『歴史性』を救済することでもあるのだ。  繰り返すと、歴史は一般に、現に生きている人間の経験的な出来事の集積というように考えられていると言える。しかし、そのような『歴史』と「事実の『歴史性』」は、厳に区別されて然るべきである。  あるいはこのように区別しよう。『現在』なるものは一般に言われているような歴史を持たない。しかし、そのつどの現在は「一回的・単独的・唯一的な『歴史性』」を持つ、と。ここで言う「現在?事実の『歴史性』」とは、端的にはその現在?事実が、それ以前にはなくそれ以後にはなかったことにはできない、ということだ。と同時にそれは、現にあるあらゆる関係の中で見出されるものなのだ。つまりそれは、意識による見方によって、あったりなかったりするようなものではない。むしろそれは、意識がそれを見ていたり見ていなかったりするだけのことなのだということを、その『事実』を暴露するものなのである。私たちの意識に捉えられている世界や歴史は、その意識が捉えることができていない世界や歴史もありうることを否定できない限りは、常に不十分なものとしてしか認識しえないのだ、ということが言える。しかし私たちは、そのような「不十分さを意識しない」で、世界や歴史を『解釈』しているのではないか。いや、世界や歴史のみならず、私たちの現に生きている「この現実」に対しても、それに対する認識が常に不十分なものであるかもしれないとは「十分に意識しない」で、「これが現実だ、もっと現実を見ろ」などと、もっともらしく言っているだけなのではないのか?
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