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私たちの意識は、一定の対象を意識する。そのような私たちの意識の働き、言い換えれば『主観』は、私たちの「意識の立場」から解釈されたものだ、とニーチェは言っている(※1)。そしてそのように私たちが意識して捉えている対象は、ことごとく私たちの意識によって調整され、単純化され、図式化され、そして解釈されているのだ、と(※2)。
たとえば私たちは、自分が生活する「この世界」を意識する。実際にその世界に生きている私たちにとって、その世界は「この世界としてある、ただ一つだけの世界であるように見える」ことだろう。しかしそれは、「そのように見ようとして見た世界」、つまり「そのように解釈した世界」にすぎないのではないのだろうか?そうであれば、「世界はいかようにも解釈されうる」(※3)ものなのではないのだろうか?ニーチェの言うように、主観とはこの自分自身が抱いている、「この主観ただ一つだけ」なのだと考える必然性はなく、自分以外の多くの人々のそれぞれの主観ということのみならず、自分自身においてさえ「多数の主観」が想定しうる(※4)と考えられるならば、この世界を見ている意識=主観の数だけ、この世界の別様な解釈があり、その主観の数だけその主観に解釈された世界がある、と言えるのではないか?つまり、それだけ「多数の世界」があることになるのではないだろうか?とすれば『世界』は、客観的な意味を持った「一つの世界」ではなく、その「それぞれの主観」において、また「それぞれの解釈」において、「無数の意味を持っている」(※5)と考えられるのではないか?
『主観』がそのようなものであるとしたら、『客観』もまた「一つだけと考える必然性はおそらくあるまい」と言えるだろうし、「多数の客観を想定してもさしつかえあるまい」と言えるだろう。それらの主観やら客観やらの中から、自分に都合のいい「解釈」を、「その世界の意味」にしてしまえばいいのではないか?「世界を、そのように見ればいい」のではないのか?
「…「意識」----表象された表象、表象された意志、表象された感情(これだけが私たちに熟知のものである)……」(※6)
「そのように熟知されたもの」だけで世界は構成されているのだと考えればいい。「それが、私たちにとっての世界である」と考えるのならば。
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