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白湯飲めば
あれはいつだったか。初夏だったような気がする。僕はジジイとふたり、家に残されたことがある。まだあの無駄に広い一軒家にいたときのことだ。田舎ボロ家。埃臭くて虫がわんさか出るあの畳部屋に敷布団が一枚、重い掛け布団が一枚。普段は家族で川の字に並んで寝る畳床が、左右にだだっ広い空間を残し、僕と一セットの布団だけをのっけていた。
風鈴の音が心地よくも耳障りで、僕は布団のなかに潜り込んでいた。ふと暑くて目を覚まし布団から首を出すと、やはりまわりには誰もいない。
……あつい。重い掛け布団を無理からひっぺがし、わきの空間へ押しのけた。大窓からの風が身体をじかに冷やす。
僕はつかの間、とんでもない大仕事をした気分に浸った。そして、天を見上げる。ぼけっと天井をながめる。いつもと同じはずの木の目が波打ってみえる。心なしか身体もふわふわとどこかを漂っているような気がした。どうでもよくなった。何かに対して投げやりになった。面倒に感じた。このままでいい。このまま一人でふわふわふわふわ。風鈴の音が遠く、遠くへ行こうとも──。
目が覚めた。どうやらまた眠ってしまったようだ。さっき押しのけたはずの重い掛け布団がずしりと僕の身体を押さえ込んでいた。
お母さんかな? 期待を込め、目と首だけでぐるりと部屋を見渡す。
「起きたか」
この声は……やはりおじいだ。すこしがっかりしていると、
「何か欲しいものはあるか?」
首を振って応える。
「また何かあったら言うんだぞぉ」
あ、だめだ。そう思ったが先かあるは──
『──喉が渇いた』
とっさにそう呟いた。このタイミングを逃せばもう次はないと思った。おじいが構ってくれないとも。
「ちと待っとれ」
ほんの十分くらいだろうけど、長く暇で切ない時間だった。ようやくおじいが帰ってきた。その手にはお盆とお椀、そして急須。もくもくと白い湯気を上らせながら僕を誘惑する。おじいが差し出すお椀を受け取る。のぞけば、透きとおった魅惑の液体。ぐびっと飲むと、乾いた舌に、歯に、喉に白湯が流れ込んだ。
──普段そんなことしないから、りんごを出したりなんてできない。そんなジジイだけど、ふたりきりのあの日、白湯を作って、僕に飲ませてくれた。胸を満たすように白湯が身体へと流れこむ。朦朧とした意識のなかで、枕元のジジイが近く感じて、嬉しかった。胸があったかかった。
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