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怖い――怖い、怖い。
隣でぶつぶつと繰り言のように唱えている人物。彼は高所恐怖症である。それもとびっきり、という副詞が先頭にひっつくぐらいだ。
祈るようにその心境を吐露する状況は、今をものがたっているようなものだが――私たちは高所に立っている。厳密な描写としては、精緻な鉄の塊にある展望台に上り、北側エレベーターの正面にあるガラス張りになった床から灰色の街並みを見下ろして立っている。
もういいや、と足と連動したようなふるえた声が訴えかけてくる。まるでタワー本体が振動しているかと見間違えてしまうぐらいだった。身体の表現力や表情筋の豊かさより、床を貫く鋭利な線を形容したような脚がこれでもかとふるえていた。珍妙なコントラストを一人の人間が所持しているなんてこと、納得するのはあまりにも阿呆な気がして、僕の脳みそが適当な処理をした結果なのだろう。
「それで、アイデアのほうはどうなんだい」と手を差し伸べて訊いてみる。
「危ない橋を何度か渡ったけど、なんとか落ちることなく目的地にはたどり着いたよ」
独特な感性からの感想だけど、たぶん、手ごたえがあったということだろう。
「久しぶりにお前から連絡よこしたなって思ったら、いきなり高いところに行きたいからついてきてくれっていうんだもんな」
「はは、ごめん。今すぐ頼れて、こんな頓狂なお願いができる間柄って君ぐらいしか思いつかなかったからさ」
これがほんの数秒前まで、全身を蛇のように刃物が巻きついたみたいに緊張と恐怖で脳を覆われていた人間と同一なのか。そんな疑問を投げつけたくなるようなほどすっきりとしている眼は、いつもの見慣れた彼の眼だった。
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