伝説の悪魔

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伝説の悪魔

「ロンシン、起きろ」  気持ちの良い温かくてすべすべするものにロンシンは顔を押し付けて覚醒と睡眠の狭間に漂っていた。声に反応して起きなきゃと思うがこの気持ち良さからぐずぐずと抜けだしたくない。  だが、しつこく揺り動かされてロンシンは目を開けた。そこで自分が上半身裸の銀月の胸に顔を擦りつけるようにして寝ていたのを知って仰天する。  ――じゃあ、あのすべすべしていたのは……。 「ぎ、銀月さま、あの、ぼ、ぼくっ」 「心配せんでもおまえのちんちんであれ以上遊んでおらん。それより外が騒がしい。おまえ今の内に裏から外に逃げろ」 「外?」  いつもなら人の気配を気付かないことなど無いはずだったのに。まさか銀月の腕の中で熟睡していたとは。  青くなりながらそっと窓のすき間からロンシンは外をのぞくと暗闇の中、二対の光を放ついくつもの影が見えた。 「銀月さま、一緒に」  腕を持って引っ張り起こそうとしたロンシンの腕を空いた方の腕が掴んで離した。 「逃げるのはおまえだけだ、ロンシン」 「だめです、銀月さま」  もう足音は耳をすまさなくても聞こえる。早くしなければ。焦るロンシンに銀月は落ち着いた声でロンシンを諭すように頭に手を置いた。 「わしはここに死ぬつもりで来た。それが早まっただけだ。だが、おまえは違う。巻き込まれて死ぬ必要はない。いいかガクに知らせろ。分かったら行け」 「銀月さま、嫌です」 「ロンシン、行け」 「絶対に嫌だっ」  押し問答の最中、扉がばりばりと音を立てた。大きく舌打ちをした銀月が素早くロンシンの腹に拳を打ち込む。 「ぐはっ……な、なん……」  倒れ込むロンシンを土間の大きな水甕と壁のすき間に押し込んで、銀月は服の乱れを直して寝台に座わる。間を置かず、扉は大きな音と共に破られて何人もの男たちが流れ込むように入ってきた。 「おまえは誰だ?」  ガクだと思っていたゲンは見知らぬ人物に肩透かしをくらったようにその場に立った。  左右の襟を打ち合わせるような長い服を腰で細い帯で結んだ文人のような格好。長い髪は背中に垂らされて、それは寝台にも広がっている。その金属めいた輝きを放つ色にゲンは既視感を覚えた。  初めて見る顔なのになんだか知っている。俺はこいつを知っている?  それを見越したように男は秀麗な顔をこちらに向けた。 「わしを知らんのか? ここでは結構有名じゃと思っていたがな」  にっこりと銀月は男に笑いかける。 「わしは銀月。応龍という種じゃ」  その言葉にその場にいた者全てが凍りついたように動きを止めた。 「は? 何を言い出すと思えば……」  ゲンが渇いた笑い声を出す。まさか自分から名乗りを上げるとは思わなかったから驚いただけだ。第一、本物が未だに生きているわけがない。一体いつの話だと思っているんだ。 「銀月だ? 嘘をつくんじゃない。面白半分に言って済むようなことじゃないんだぞ、こらっ」  ゲンが銀月の髪を鷲掴むと顔を上げさせる。 「面白くないんだよ、そんな冗談」 「冗談じゃない。わしが銀月じゃと言っておる。おまえ耳が聞こえんのか?」  顔をぐいっと引かれた銀月のその態度にゲンが何も言わずに髪を掴んでない方の手で殴りつけた。  ぐんと大きく体が倒れるが、髪を掴まれているせいで寝台から落ちることは無かった。大人しく自分になぐられたこの男があの伝説の魔物だとは信じられない。見た目も昔から伝えられている醜悪な姿とは違う。  もっと見るからに凶悪な姿で、恐ろしいほどの獣性を見せているのかと思っていたのだ。  だけどもしそうなら。気配も見かけも変えることなど簡単かもしれない。  もし、そうだったら……。 「おまえ、本当に銀月か?」 「だからさっきからそう言ってるだろ、おまえ呆けとんのか? 可哀そうなやつじゃ」 「てめえっ」  ゲンがもう一発喰らわそうと繰り出した拳は簡単に避けられた。空を切った自分の腕を信じられないように見ながらゲンは顔を銀月に戻す。 「避けたな」 「そりゃ、避けもするわい。当たれば痛いからな」  そこに鴆(ぜん)の男が割って入ってきた。 「おまえ、何しにここに来た?  詰問口調で詰め寄る男の顔を見上げて銀月はゲンと男の顔を観察するように眺めた。そして大きくため息をつく。 「おまえらこそ、何がしたい? おまえらの顔には私怨しか浮んでない。そんなことで仲間を巻き込んで、一体どう死にたいのか、こっちが聞きたいわい」  銀月が自分の髪を掴んでいるゲンの手首を掴んだ。万力で締め上げられたように骨がぎりぎりと鳴る音が聞こえた。 「自分の恨みつらみを。汚い願望を。里の存亡をそんなもので決めるつもりか、このクソがっ」 「は……放せっ……」 「おや、悪かった。手首が砕けたかもしれんな」  手を離した途端、ゲンは青い顔で床に倒れ込んだ。立ち上がった銀月がそれを跨いで鴆(ぜん)の男に向かい合う。  にらみ合い、間合いを取りながら銀月と男はガクの家から外に出た。  ぐっと空気が変わる。いきなり深い水の底に沈められたように身体の内も外にも力がかかっている。  きんと音がするほど冷えていく気配に誰も動けない。  そこにいるのは銀月本人だと信じない者はいなかった。びんと張った空気が恐ろしい程の気配を伝えてくる。空気の存在を思い知らされる。踏ん張る足が震えるほど圧し掛かる圧力。ここに居る者全てが皆獣性を持つ。それだから分かる獣の格。  禍々しいほどの気配に皆息もできないほど気圧されていた。 「また……ここを……潰しにでも……来たのか?」 やっと出した男の言葉に銀月はふんと鼻を鳴らす。 「ここを潰すのはおまえらじゃろ、わしじゃ無い。何度も同じことを繰り返すのはバカの証拠だ」 「な、なんだとっ」  鴆(ぜん)の男が思い切ったように手に持った刀を振りあげる。それを合図に呪縛が解けたように他の仲間も腰から刀を抜いていく。 「おまえらと戦ったのは本当のことだ。何人もこの手で切ったのも事実。だが、おまえらの住処を焼き払ったのはわしじゃない、おまえらの先祖だ。最後を覚悟した時の族長が火を付けて戦闘員じゃない妊婦や子どもも建物ごと殺した」 「嘘をつくなっ」 「殺せ」 「黙らせろ」  銀月の話はとても容認できることでは無かった。魔族をこんな不遇な生活に貶しめたのは創始帝と銀月。そうでなければならない。  事実など関係ない。  大切なのは受け入れることのできる史実。  騒然となって、誰もが銀月に切りかかろうと向かってくる。 「わしの話を聞けと言っておるっ」 銀月が一喝する。 その後にいきなりもの凄い光で目が見えなくなった。凶器のような突き刺さる青白い光。その後に巨岩が落ちたのかというほどの音と衝撃。立っていられないほどの揺れと爆音で皆倒れ込んでしまう。暫くは耳がだめになっていた。今何をしているかも分からない。 「わしの言うことを大人しく聞け」  這いつくばって耳を押える者の中、一人何も無かったように銀月は立っている。 「……雷」  雷が落ちたのだと気付いたのはしばらく経ってからになる。そしてそこに居た誰もが銀月が雷を落したのだと思った。  そんなことができる……はずは無いと考える余裕など残されていない。ここは山合いで、しかもいつ雨が降ってもおかしくない天気だった。  雷がいつ落ちてもおかしくない場面、それでも。  未曾有の殺戮も、伝説の悪魔も。  全ては人の心が作りあげる。  地面を抉るような雨が降って来る中、確かに冷たい微笑を浮かべる銀月は言い伝えのように恐ろしく見えていた。
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