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お涼は予想外な者から発せられたその名前に、頭の上から冷たい水をかけられたような気分になった。ザジの居所なんて。むしろ、お涼自身が教えて欲しいくらいだ。
疑心をこめた視線でトバリを突き刺す。
若さの溢れる艶やかな黒濡羽。それと同じ色をした瞳が、じっと険しい顔の猫を映している。
烏の表情はお涼には読みづらかった。その瞳がどこまでも深い虚のように思えてお涼は険しい顔をより厳しいものにする。
そもそも何故烏の口からあの子の名前が出るのか。まさか、あの子が帰って来ない事に何か関係があるのでは。
その考え至った時、強烈に感じたのは暴れ狂う熱だ。
そいつは顎の下から頭のてっぺんまで一気に駆けあがって来る。脳天で留める間もなく白く弾けるそれが、激しい怒りなのだとお涼は知っていた。
お涼は思わず詰め寄ってしまいそうになるのを何とか堪え、
『うちの倅に何か用かい?』
とそ知らぬ顔で低い声を出す。
その言葉に今度はトバリの方が目を丸くする番だった。
『ははあ、ご母堂でいらっしゃいましたか! よくよく見ればお顔立ちが似ていらっしゃる』
次いでトバリは目を伏せた。
その沈痛な面持ちは、やはり何かがあったのだという確信をもたらすには十分だった。努めて表情を動かさないお涼の心の臓がきゅう、と聞こえぬ音を立てる。
『……ご家族にはお話した方が良いかもしれませんね』
無機質な黒い嘴は語った。
ザジたちと烏たちの戦い。
猫を殺す大きな黒い犬。
袋小路で戦うザジと黒い犬。
血まみれで姿を消したザジと、共にいたはずの2匹の猫。
お涼は彼から語られる情報を頭の中で縫い合わせて、できうる限り鮮明なものを思い浮かべた。彼女の瞼の下で、黒くて毛の長い犬に組み伏せられた、血濡れのわが子の姿が描かれる。
この事件の犯人ははお涼の予想していたよりも数倍上手だったのだろう。体格差のある大きな犬が相手とはいえ、ザジが後れを取るというのだから相当の手練れだと予想が付いた。
ここでお涼はある可能性に思い至る。
もしかしたらあの子は、あらかじめそれを知っていたのではないだろうか。だから自分を事件から遠ざけようとしたのでは。お涼は苦い顔をした。テツとシキを帯同させる事を、あんなに拒むわけだ。
ザジは肩口を2度噛まれたという。急所は外していても、大きな犬に2回も噛まれれば十二分に大きな怪我だ。よしんば傷口が塞がったとしても、次に待っているのは感染症の危険だ。罹れば最後、野良の自分たちに助かる見込みはない。
ザジは今も、痛みや苦しみに悶えているのか。
それともすべての苦しみから解放されて、遠くの別の空に居るというのか。
その彼の傍にテツとシキはいるのだろうか。
『いやぁ、死んではないと思うんですがね』
トバリが言うがその声は沈んでいる。
烏に気を使われるのはなんだか妙な気分だと、困ったように眉を寄せてから、
『テツやシキはともかく、ザジは野良猫だからね。死ぬときは骸を残したがらないものさ』
言ってから後悔する。彼らが死んだなどと、思いたくはないのに。
『それよりも、やらなきゃいけない事ができたね』
お涼は全身をぶるぶると震わせて尻尾を立てる。『やらなきゃいけない事?』とトバリは小さい頭を傾けた。
『私はここのボスだからね』
縄張りの平和を守り、子分を守るのが彼女の仕事。この下町を脅かす犬は、猫を殺す以上お涼の敵だ。いくら強かろうとも、倒して、縄張りから追い出す他に選択肢などない。
ザジの提案もあって今までずっと山のように腰を据えていたが、待っていても解決の見込みがないのであれば動き出さなくては。
そう、これはボスの仕事。
それでも自然と怒りが湧く。腹の下で沸々とじっくり煮詰めて蓄える。
これは先ほどの湧き上がったような反射的な怒りではない。冷静さを失わなければお涼は怒りを操ることができた。
『ちょいとお礼参りをしに行くのさ』
そう言って口の端を持ち上げる。どこかで見たような不敵な笑み。
そうして努めていつも通りに悠然と歩み始めた。
ゆんらり、ゆらりと美しいブルーグレーの尻尾が揺れる。
廃墟を抜けたその先の。
決戦の時を見据えて尾が揺れる。
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