けだものたちの宴

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 幾度も相対してきたが、ここまで凪いだ目をしているのは初めて見る。犬はその双眸に井戸の底のようにどろりと黒を称えて静かにこちらを見据えていた。  “これが最後だ”と、目が語っていた。  余力のすべてを終結させるかのような立ち姿に、ザジはほんの少しだけ後ずさりする。  走り出したのは同時だった。  舌がもつれて声にならない悲鳴が勝手に飛び出してくる。こんなわかりやすい失態を犯したのは実に久しぶりだった。けれど今は取り繕っている余裕もない。  反転した体の向く方向に一直線で走る。背後に迫る気配は逃げる先を選ぶ事すらさせてくれない。  視界の先には重厚な両開きの扉。下方に取り付けられた身に余る押し扉の出入り口だ。  途中、左側の部屋から何かが這い出てくる気配がした。もちろん脇見も振らずに走り抜けたザジにはそれが何だったのかわからなかったが。  ザジの頭の中にあるのは1つだけ。 (止まったら殺される)  余力を集約した大一番。正真正銘の手負いの獣の執念だ。  その圧倒的な殺意が肉迫してくるのを感じて思わず尻尾が膨らむ。けれど、それは決して怯えだけを内包しているわけではない。  これは犬の最後の1撃だ。 (逃げきりゃ俺の勝ちだ!)  ほとんど体当たりの要領で押し扉を潜り抜ける。すぐ後に派手な音が聞こえて、ほとんど扉をぶち破るように犬が飛び出してきたのがわかった。  無造作に伸ばされた草木をかき分けて庭を駆ける。  浅い階段を2段飛ばしで駆け下り、真っ黒い木戸を飛び越えると、目の前には左右に伸びる道路と視界を遮るように横切る線路が現れた。 「うっ」  右へ曲がろうとした前足から力が抜けて声をあげる。  負傷した足に激しい運動をさせたのが祟ったのか、バランスをくずした身体を立て直すことが出来ない。ざらついた固いコンクリートの感触が疲労した体に強く響いた。  慌てて顔を上げた時にはすでに、ぎらついた双眸の犬が目と鼻の先に迫っていた。 (あ、やべ……)  死んだわ、とザジは襲い来るだろう痛みをどこか他人事のように想像しながら、だんだんと大きく広がる黒を呆然と眺めていた。 「はっ?」  だが、予想を反して黒はザジの上を通り過ぎた。  犬は最初からザジの姿など見えていないかのように走り抜けて行く。  ザジの視線が通り過ぎた犬を追いかけた。  そして。    ■ ■ ■  立ち上がった時、犬は感覚器官の殆どが機能していなかった。  鼻は血の匂いしか拾わず。  耳は甲高い音が常に鳴り。  片側しかない視界はぼんやりと濁る。色の判別をするのがやっとという有様だ。 (もう、終いだな)  犬には自分がそう長く生きられない事を察して尚冷静でいられる聡さがあった。  その上で犬が思ったのは、獲物を追いかけるには十分だ、という事だった。  最後の力を振り絞って走る。  あの白い猫を捕まえる事に意味はない。なんせ部屋はあの有様だ。見れば主人は怒り狂うだろう。とてもあんな貧相な白猫を上納した所で機嫌がとれるとは思えなかった。  何よりすぐに死に往く身に、鞭を打つように走る必要があるだろうか。  そう思うのに、犬は走ることをやめられない。  人に育てられた数年の間、獲物を追いかけるだけの毎日だった。犬にとって狩りは呼吸だ。やめようと思ってやめられるものではない。  途中何かにぶつかりながらも、犬は扉を破って外へ出た。開けた視界に一瞬ザジの姿を見失うが、すぐに見つけることが出来る。問題ない。  ぼやけた視界の中でも、あの白い体はよく目立つのだ。  少し先にある白めがけて犬は走る。  走って。  走って。  そして、線路に飛び出した彼女は唸り声をあげる電車に撥ねられた。    ■ ■ ■ 「あ?」  呆然とした声が出る。ザジは首をもたげて犬の走り抜けた先を見た。  ガタゴトと通り過ぎるのは鉄の道を通る四角い箱だ。ザジはこの無機物が車より強い“電車”と呼ばれるものだと知っていた。  電車がザジの前にいるのは少しの間。それが過ぎ去ると、線路には無残に赤く染まった黒い犬の身体が残される。 (なんで)  そう思ったザジの視界の端にに、はたはたと踊るものがある。  それは線路の中に捨てられた白いビニール袋だった。  眩しいくらいに白いそれと己の汚れた身体を見比べて、最後に物言わぬ犬の骸に目をやる。  犬の身体はあちこちが赤くはじけ飛び、ほとんど原型を留めてはいない。脂ぎった毛玉だらけの黒い毛だけが、その肉塊があの犬なのだと証明している。  落ち着いて見るとそのごわついた毛が本来のものではないとよくわかった。  人間と暮らしているというのに手入れもされず、手当てもされない。命令のまま獲物を狩る事にしか愉しみのない荒んだ目をした哀れな飼い犬。 「お前は同胞を殺すから、許したりは絶対にしないけど」  静かに目を伏せた。  サジ自身も手入れや手当てとは無縁な身の上だったが、生きる場所を選べる分野良猫の方が幾分かマシに思えた。 「少しだけ、ほんのちょっとだけ……同情する」  ザジは静かに目を閉じる。まるで犬の死を悼むかのように。  少しの間そうしていると、後ろから「ザジー!」と声がかかった。  振り返れば館の前にテツがいる。ぴこぴこと茶色いかぎ尻尾を振って元気そうだ。その後ろにはすまし顔のシキと、薄く微笑んだお涼が控えているのが見えた。 「おう」  ザジは短く返事をする。  犬の骸を見る事なく、テツたちの元へ歩き出す。  猫を狩る恐ろしい犬はもういない。  長いようで短い事件の終わりだった。
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