119人が本棚に入れています
本棚に追加
人の気配が少ない、ひんやりと薄暗くて、風通しの良い裏路地。夏などは良い避暑地になるのではないだろうか。
もちろん、出入口をこの恐ろしい犬に塞がれていなければの話だが。
テツは震える唇から熱い呼気を漏らす。
がくがくと細かく揺れる顎を引いて様子を伺えば、犬は愉快そうに嗤った。
後ずさりしながら頬髯をひくつかせていると、ある事に気がついた。
此処から、半兵衛の匂いがすると。
いや、彼の匂いだけではない。この場所のいたるところから、知っている猫や名も知らない猫、数多の猫達の匂いがするのだ。
汗の匂いと、尿の匂いと、そして血の匂い。
鼻の奥に纏わりつく、死のかおり。
ここは、狩場なのだ。
哀れな猫を追い詰めて、絶望の内にその牙で柔い命を奪う、この犬にとっての至上の遊び場。そして今、まんまと追い込まれたテツは、自分が彼に辱められるだけの脆い玩具になろうとしている事に気が付いてしまった。
心の奥底を鋭利な氷の針で貫くような、ひんやりとした危機感に蝕まれてごくりと唾を飲んだ。
口を開く。震える声が出る。
「なんで、なんで殺すの?」
思わず口をついたのはそんな言葉だった。
それを目の前の犬が理解できたかテツにはわからない。けれど、犬の表情はテツの思っていたよりも雄弁だった。
きゅっと弓なりに目を細めただけだったが、
『たのしいからさ』
そう言っているように見えた。
曇天のように濁った黒い両目に、おぞましい妄執の炎が滾っている。テツが今まで見て来たどんな猫も、あの恐ろしい巨躯の烏でさえも、こんな目はしていなかった。
蹴飛ばして、嬲って、噛みついてやる。できうる限りの暴虐と残虐をつくしてお前を殺す。
そんなどうしようもない“遊び”を、この犬は心の底から愉快に思っているのだ。
足が震える。
全身が慄き、逃げろと警鐘を鳴らす心の臓が、煩いくらいに跳ねる。
それなのに戦う事はおろか、前にも後ろにも進めずにいる。
(ザジ)
ふと脳裏をよぎったのは、先ほど喧嘩別れしてしまった兄貴分の姿だった。
彼はきっと、この恐ろしい犯人の正体を知っていたに違いない。そして、あまりに危険だと、テツやシキ……そしてお涼を近づかせないがために、あんな嘘までついたのだろう。
実際に彼の心配した通りになってしまっているのだ。恐怖と、疲労と、情けなさでテツは鼻をすすった。もしテツが人間だったなら涙だって流していただろう。
ざり、と犬が1歩踏み出す。
腰を引いて後ずさりしていたテツは、お尻に冷たいコンクリートの感触を感じて、もうこれ以上後ろには下がれない事を悟った。
もう1歩、と犬がゆっくり足を踏み出す。
縮まる距離。それを伸ばすことがもうテツにはできない。
黒い影がゆんらりと大きく揺れながら近づいて来る。『もう我慢できない』と言わんばかりに荒い生臭い息がテツの耳の先を掠めた。
犬が耳まで裂けた黒い唇をめくりあげ、大きな歯と毒々しい色の歯茎を見せる。
大きく開かれる口。
喉元に向かってスローモーションのように振りかざされる鋭い牙。
今にも噛みつかんとするその動作があんまりにゆっくりに思えて悲鳴も忘れて固まっていると、喉笛に到達する直前で不意に犬の動きが止まった。
ガシャン!!
「!?」
大きな音が聞こえて振り返ると、屋根から落ちて来たのだろうか猫の頭ほどの大きさの装飾品が、地面と衝突して粉々に砕け散っていた。
「……あ」
それが落ちてきた方を辿ると、屋根の上に見知った顔の黒猫を見つけて、テツの目は大きく見開かれる。
「シ……」
『ぎゃんっ!!』
テツが名前を呼ぼうとしたその時、一緒になって屋根の上に視線を向けていたはずの犬が悲鳴をあげて後ずさった。
ぱたり、ぱたりと赤黒い液体がが地面におちる。
それが黒い犬の血だと気が付くのに時間は要さなかった。シキのいる屋根の上の反対側から飛来した何者かが、その鋭い爪を持って犬の鼻ずらを削り取ったのだ。
その何者かは音も無くテツと犬の間に着地して、「フン」と鼻を鳴らす。
「油断したなァ、でかぶつよぅ」
不敵な白がくつくつと笑った。
紅く濡れた前足の先をぺろりと舐めながら、横目でテツの姿を確認する。赤い目が安堵する様に細められるのを見て、テツは焦がれる様に彼の名前を呼んだ。
「ザジ……!」
呼ばれた彼は不敵な笑みを崩さぬまま「泣くにはまだ早いぜ、テツ」と目の前の犬を睨み据えた。
最初のコメントを投稿しよう!