いつかの出会いにさようなら

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 ざり、と白いしなやかな足がコンクリートで舗装された地面を掴む。ザジが一歩左へ踏み出せば、視線の先から外れぬように犬も同じだけ左へ動く。  お互いの一挙一動をつぶさに視認しながら、ゆっくりと2匹は半周程の曲線状の軌跡を描いて、ひたりと足を止めた。  腰を落として相手を見据える。  逃げるつもりはもうなかった。  この犬を倒してしまおう。ザジはそう考えていた。  正直に言って心の準備すらまともに出来ていない大一番なのだが、ここで戦いを先延ばしにする事で、テツやシキに奴の爪が伸びる可能性があるのだと思うと背筋が凍った。  そんな思いをするくらいなら。  大事な仲間に脅威が及ぶくらいなら。  今、此処で、この犬を倒すのだ。  先に動いたのは犬だった。  愉悦と殺意を滲ませて犬が伸ばした両の足は、まっすぐにザジの方へ向う。それをザジは目を細めて(かわ)す。しなやかな体をわずかに捩る、必要最低限の動きだ。そのまま動きを止めずに軽やかなステップをもって距離を詰めて犬の眼前へと躍り出た。 「おっせーぞ! のろま!」  声と共に繰り出されたのは鋭い爪だ。  狙う先はもちろん顔。その中でもとりわけ無防備な、目玉を狙って振り下ろす。  犬は咄嗟に顔をそむけた。  爪の先が犬の瞼を掠る。 「クソッ」  ザジは舌を打った。これでは皮も裂けてはないだろう。  距離を取るために後ろへ跳ぶが、すかさず犬が大きく跳躍し距離を詰めて来た。虚を突かれたザジは小さくたたらを踏んだが、それでも素早く更に後ろへ逃れようとする。  犬の牙はザジを捉える事なく空を噛む。  だというのに、彼の口元はニヤリと弧を描いていた。 「ぎにゃっ!?」  その事を疑問に思う前にザジは飛び上がった。何か、固くて尖ったものを踏んだのだ。それは辺りに一帯に撒かれていて、飛びのいた先々でザジの足を傷つける。  それは鋭角に()ぜた陶器の破片だった。先ほどシキが落とした屋根の装飾の一部だ。謀られたのだと気が付いた時にはもう遅い。  はっと前を向いたザジの眼前に迫るのは、鞭のようにしなる太い前足だ。ゴスンと鈍い音を立てて横っ面を殴られる。背中を無防備に地面につけて転がされたザジに、犬はすかさず覆いかぶさった。  前足をその胸に乗せて動きを封じる。  ああ、こうしてみるとやはり猫の身体は軟いのだと、犬は少し不満に思った。  身体は小さく、骨は細い。毛皮も薄くて頼りなく、鋭いのはその眼光と爪の先ばかり。胸の上の足をどけようと爪を立てる決死の抵抗などものともしない。 「よワい、よわイな」  犬は少し残念に思った。楽しい遊びもここまでかと。  けれども、それはそれで構わないとも思っていた。  狩りが終わったなら、別の遊びが始めるだけだからだ。  猫の身体は弱く脆いが、犬は弱いものが嫌いではない。圧倒的な実力差というのは狩る楽しみこそ減るものの、その分大事に大事に甚振って遊べる。獲物は気性の荒い奴ほど良い。激しく抵抗される程に、強い興奮を覚える性質だという自覚があった。  恍惚とした眼差しでザジの真っ赤な瞳をのぞき込み、にんまりと笑う。  長いマズルがぱっくり割れて、中から鋭い牙の列が現れる。それはゆっくり、ゆっくりとザジの前足の付け根にあてがわれ、じわじわと力が籠められる。 「……っ!!」  緩やかに訪れる激痛に、ザジは全身を震わせた。  爪を立てる。  足で蹴飛ばす。  言葉にならない悲鳴が、意図せず零れて空気を揺らした。  けれども、自らの上に乗り上げたこの黒い毛むくじゃらはびくともしない。  どれくらいそうしていたのか。ザジにとってはとてつもなく長い時間のように思えたが、痛みの終わりこそ突然だった。  犬は唐突に噛むのをやめてザジの顔をのぞき込む。死んでないか確認しているのだ。  ザジが睨みつけると、それはそれは嬉しそうに喉を鳴らした。  ザジは今受けた傷が致命傷ではない事に気が付いた。それがどういう事なのか、すぐに理解して舌を打つ。 (遊んでやがる……)  業腹な事に、だ。  始めてこの犬を目にした時を思い出して、ザジは自分のプライドがひどく傷つけられるのを感じていた。  野良の中の野良として1人孤高に生きて来たザジは、猫の中では好戦的で喧嘩の強い猫だった。同じ猫にはもちろん、化物烏にだって負けないし、狩りだって失敗なんてほとんどしない。  そんな自分が、こんな風に嬲られるなんて絶対に許せない事だと、ザジの紅い双眸を鋭くさせた。 「どうしようもねェってのは、てめぇの事だなァ」  呆れたような口調で発せられた言葉を、犬は喜色に富んだ顔を崩さぬままに「負ケねコのとおボえだ」と嘲笑混じりに一蹴する。  犬はザジの右爪にはもう力がない事に気が付いていた。前足の付け根を傷つけられた事によって力を入れるどころか爪を立てる事すらできないと。  痛みもひどいのだろう。最初は全身を使って抵抗していたというのに、前足以外もくったりと弛緩してしまって、あまりにもしおらしい。泣き言を漏らさんとする表情ばかりが、悪戯に険しかった。  自尊心の高さ故の、くだらぬ見栄だと犬は思った。  しかし、これでは愉しくない。  犬は泣いて喚いて抵抗するのを少しずつ殺していくのが好きなのだ。どうしたらちゃんと抵抗してくれるだろうか。  そう思案した結果、もう片方の前足も使えなくしてしまおうという結論に至った犬は、同じように大きく口を開けて反対の付け根に歯を這わせる。  ザジが吠えたのはその時だ。 「吠えずらかくんじゃねえぞ!」  最後の力を振り絞るかのように、ザジの左前足が唸った。  足の付け根に牙が食い込むのも厭わずに、犬の右目めがけて振り抜く。  鋭い爪は油断していた犬の右目に到達し、網膜を貫く。ぶちゅんと何かがつぶれる音と共に、鋭い激痛を犬にもたらした。
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