119人が本棚に入れています
本棚に追加
『ギャアッ』
たまらず犬はのけぞった。
拘束から解放されたザジは体を起こす。前足は両方ともじくじくとした痛みを訴え、碌に力を入れる事もできない。
それでも後ろ脚に体重をかけてなんとか立ち上がった。してやったりと不敵な笑みを浮かべると、ザジの視界で犬がぐぅるる……と喉を鳴らした。
それは先ほどまでの余裕と愉悦を孕んだ歓喜の声ではない。痛みと苛立ちからくる怒りを孕んだ、地の底にまで響くような怨嗟の声だ。
犬の右目は瞼によって覆われている。その隙間からは赤黒い血がしとどに流れ落ち、黒い毛を伝って地面に黒いまだら模様を作った。
その隣にある左目は鮮烈な怒りに燃えている。
痛いほどの殺意が、剥き身のままザジの身体に降り注いでいた。
ザジは少しでも距離をとるため後ろ脚だけで体を引っ張るが、数歩下がっただけで冷たい壁に突き当たった。コンクリートでできた真っ平な壁は、小さな地窓があるだけで、足場になりそうな場所はない。
そうだ、ここはそういう袋小路だったとザジは眉間に皺を作った。
(万事休す、ってのはこういう事だな)
何処か他人事の様に考える。
ザジの白い毛は両前足の付け根から溢れ出る血によって薄紅色に染め上げられ、足元に作られた血だまりは、犬のそれとは比較にならない程に大きい。傷口がじくじくと熱を訴えているのに、頭のてっぺんから背中にかけてにすーっと寒気が下りてくる。変な気分だった。
犬が駆ける。
明確な殺意だけを持って、まっすぐにザジの方へと走ってくる。
動かなくては。
どうにか逃げなければ死んでしまう。
やけに冴えた頭ではわかっているのに、ザジの身体はピクリとも動かない。
(これは、駄目だ)
霞んだ視界に迫る犬を眺めながら、ザジはぼんやりと死を覚悟した時。
ザジの前に小さな茶色い猫が割り込んだ。
テツが物陰から飛び出して、ザジと犬の間に立ちふさがる。全身の毛を逆立てて尻尾を膨らませるのが、彼のできる精一杯の臨戦態勢だった。
「テツ!?」
驚いて声をあげるザジの方には目もくれず、テツは犬に向かって走り出す。
犬の方は突如現れた闖入者に少しばかり驚いたものの、動きを止めることはなかった。
攻撃の照準を忌々しい白猫ではなく、飛び入りの茶色に向ける。それだけで良かった。この取るに足らない邪魔者を排除するのにためらいなどはない。こんな小さな猫1匹、たやすく噛み殺すことができるのだから。
ザジは咄嗟に足元に散らばった陶器の破片を後ろ脚で蹴り飛ばした。
狙いは甘い。犬の顔を狙った破片は右頬をかすめるだけ。それでも視界の半分ふさがった犬を牽制するには十分だ。
わずかばかり動きを止めた犬の攻撃をかいくぐったテツの爪が、すでに血で濡れた右頬を抉った。
『グッ』
犬が数歩後ろへ下がる。
その隙にテツはさっと背を向けた。
『クソガキ!』
殴るだけ殴って逃げ出したテツの背を、少し遅れて犬は追いかける。
テツは真っ青になって逃げる。
逃げる先はあろう事か動けぬザジのいる方向だ。
もちろん、ちゃんと考えがあっての事だ。自暴自棄になったわけでも、パニックを起こしているわけでもない。
「テツ!」
ザジの後ろで声がした。聞きなれた妹分の声だ。
「シ……」
ザジが彼女の名前を呼ぶことは叶わなかった。
がらりと背後の窓が開き、そこから現れたシキによって窓の中に引っ張り込まれたからだ。尻尾を引っ張られてバランスを崩して窓の中になだれ込むと、数秒もしない内に必死の形相のテツが駆けこんで来る。
がつん!
息をつく間もなく大きな音がして、3匹は身を竦ませた。
犬が窓枠に体当たりした音だと気が付いたのは、開け放たれた地窓の向こうで恨めし気にこちらをのぞき込む、隻眼の犬がいたからだ。
片眼を失っても、顔が血で濡れても、犬の目に宿るほの暗い狂気の色は衰えない。それどころか、殺意が膨れ上がる事によって、よりギラギラと鈍い光が増している様にすら見える。
テツとシキは身震いして倒れ込んだザジの身体に身を寄せた。
ごくり、とねばついた唾を飲み込む。
窓は小さく、とてもこの大きな犬がくぐれるようなものではない。テツたちは安全な場所に逃げ込んだはずだった。それだと言うのに、未だ生きた心地がしなかった。
犬は数十秒ほどテツたちを睨みつけた後、不機嫌そうにゆっくりと窓から離れていった。
ほっと息をついたテツはすぐにザジに駆け寄る。
「ザジ、ザジ、大丈夫?」
灰色のタイル張りの床に横たわったザジは、浅い呼吸を繰り返しながらちらりとテツの方を見た。
彼の身体に穿たれた2か所の噛み傷は、致命傷ではないものの血はとめどなく流れ続けている。このまま放っておけば命に係わる事は間違いない。白かったはずの毛はどこもかしこも薄く色づき、あの新雪のような美しい毛並みは見る影もなかった。
その傷ましさにテツは泣きそうになる。
自分が1匹で行動などしなければ。そうしたらザジはこんな怪我をする事は無かったのではないだろうかと、今更どうする事もできない後悔がテツの心を締め付けるのだ。
「……テツ」
ザジが小さく呼ぶ。
テツが耳を澄ますと、ザジは消えそうなくらいか細い声で、
「わるかった」
と囁いた。
テツのまん丸い目がより丸くなるのを見て、ザジは薄く笑みを浮かべる。
ザジにとってテツはずっとあの日の可愛い仔猫だった。
小さくて。弱くて。無邪気な可愛い可愛い養い子。少しとろ臭い所すら愛しい、どうしようもなく大事な存在だった。
ずっと守るべきものだと思っていたし、それは今でも変わらない。
けれども、ザジの思っていたよりテツは頑固で、勇気があった。
いつの間にか立派な雄猫になっていたのだ。
(知らんかったな……)
ザジは目を閉じた。先ほどから眠たくて眠たくてしょうがないのだ。
視界が黒く落ちる。
テツの声が遠くなっていく。
薄れゆく意識の中、ザジはぼんやりと思う。
もうあの日の子どもは居ないのだと。
それは寂しいような、それでいて少し誇らしいような、不思議な感じがした。
最初のコメントを投稿しよう!