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■ ■ ■
「ふがっ」
薄桃色の医療用カラーを咲かせた白い猫が吐き出したのは、あまりに間抜けなくしゃみだ。
古い畳の4畳半。
普段は使われていないのだろう、少し埃っぽい茶室に置かれた段ボール製のベッドの中。慣れない触り心地の良いタオルケットに鼻をぐずらせながら、ザジはふっと目を覚ました。
身体を伸ばせば、いたる所にぴりりとした違和感が走る。
白い上半身には未だ痛々しい傷が、赤黒いかさぶたになって残っていた。
もう殆ど痛みは感じていないのだが、その代わりとばかりに治りかけの傷はひどい痒みを訴える。なかなか我慢が利かずに、舐めたり掻いたりしてしまっていた。
その結果人間の手によって着けられたのが、このおかしな感触の“エリマキ”である。
視界が悪くなるし、動きづらいし、何より傷を舐めたくても舐めることが出来ない。ザジにとっては不愉快な装飾品に他ならないのだが、おかげで傷の治りが早くなったのもまた事実だった。
「ふん」
不機嫌そうに鼻を鳴らす。
ザジは不自由が嫌いだ。
その中でも人間に閉じ込められるのは格別だった。本当は今すぐにでも部屋の隅の秘密の出口を通り抜けて、外へ出て行ってしまいたいとすら思っている。
けれどもザジはそうしようとは思わなかった。人間の世話になる方が治りも早いし、餌を狩りに行く労力も消費せずに済む。この家の人間が便利だからだ。
けして、テツとシキに泣きつかれたからでは、ない。
「起きたぁ?」
ザジが自分に言い聞かせている所に、能天気な声が聞こえて来た。警戒心の欠片もない足音に溜息をつきながら、おざなりな返事を返す。
少しだけ開いた襖の隙間から、にゅっと黒い鼻ずらが覗いた。
シキの小さな鼻は襖を器用にこじ開け、するするとしなやかな身体を滑り込ませて来た。その後に続いて、テツも少しだけ身体をつっかえさせながら入って来た。
テツは襟巻の中心で不愉快そうにそっぽを向いた鼻づらに鼻を突き合わせて「おはよう」と挨拶をする。
ザジはむっつり黙り込んだままだったが、テツは気にせずに彼の顔を綺麗にするためにざらついた舌をこすりつけた。ザジが自力で顔を洗えなくなってからの日課だった。
「よし、綺麗になった」
ひとしきり作業に熱中した後、満足そうに離れるテツの後ろでシキが小さく首を傾げる。
「具合はどう?」
「……毎日同じ事聞きやがって」
ぱたん、とザジの尻尾が揺れた。
「俺はいつだって平気だって言ってんだろ」
「でもご主人が“もう少し様子を見る”って言ってたわ」
飼い主である少女の言葉の中で理解できた部分を伝えれば、ザジはうっすらと眉間に皺を寄せた。猫相はすこぶる悪いが、反論はない。
ザジも自分の身体が未だ本調子には程遠いという事はわかっているのだ。
「貴方の様子がおかしくなったら、ご主人を呼びに行かなくちゃ」
「……心配症め」
「心配だってするよぅ!」
薄く笑みを浮かべるザジに、ぽこぽこと怒りながら反論するのはテツだ。
「あの時僕ら、すっごくすーっごく! 怖かったんだからね!」
“あの時”というのは、ザジが大怪我を負う事になったあの夜の事だ。
無人のビルの地窓から辛くも逃れたザジは、あの後すぐに意識を失う事になった。
血塗れでひっくり返ったザジを見て2匹は血相を変えた。うにゃうにゃにゃあにゃあと動揺ししながらも、シキが飼い主である少女に助けを求めるために家まで走ったのだ。
助けを求めると、少女はまず彼女が外に出ている事に驚いたようだったが、すぐにその尋常でない様子に気が付いた。彼女に先導されるまま2匹の元までやって来た少女はザジを見て顔を青くして、3匹を近くの動物病院に連れて行ったのだ。
その日からザジはシキの家の茶室に寝泊まりしている。
「わーったよ」
諦めたようにザジはごろんと横になる。とはいえ、お腹を出して寝るようなことはしない。できるだけいつでも逃げられるような体制をとるのは体に染みついた癖だ。
「変な感じがしたら、ちゃんと言う。それでいいんだろ?」
「うん!」
テツが全身から喜色を滲ませて頷いたその後ろで、
「貴方が殊勝だと気持ち悪いわ」
などとすました声でシキが言うので、にんまりと意地の悪い笑みを浮かべてにじり寄った。
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