けだものたちの宴

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   ■ ■ ■  ガラス片を踏まないように気を付けながらゆったりと歩を進めた。  ザジの口元にはいつもの不敵な笑みが作られている。それでいて目には表情に似合わない固さがあった。張り詰めた糸のような緊張がザジの身体を蝕んでいるのだ。  目の前にはガラスの屑に埋もれた黒い大きな毛玉が見える。透明な破片に交じって絨毯に沈んだ赤はその毛玉のものなのだろう。  毛玉――犬はぴくりとも動かない。 (起きるな。もう、起きるんじゃねェぞ……)  冷汗をかきながら繰り返し心の中で念じた。  目の前に広がる光景は確か自分の手で引き起こした事であるはずだった。  けれども幾度となく犬と対峙してきた経験故に、まったく安心できないでいる。  浴室から逃れたザジはある策を講じた。  犬が追い付いて来る前に、少しばかり足跡に細工を施したのだ。  まず、階段の手前まで伸びた自分の足跡を使って後ずさりをする。部屋の入口まで戻ったら、今度は壁の装飾を頼りに2階に飛び移れば完成だ。  この技は自分が野うさぎを追っている時に実際にやられた手法であった。目の当たりにした時は器用な事をする動物もいるのだと大いに感心したのは記憶に新しい。これで犬にはザジの足跡が階段の手前でふっつり途切れたように見えるだろう。奇妙な足跡の完成だ。  無駄に鋭い鼻も使えぬこんな館で、唯一の追跡材料が使い物にならないと気がつけば、さしもの賢いモジャ公も一寸ばかりは動揺するのではないかとザジは考えたのだ。  あとは2階の天井に頼りなくぶら下がったシャンデリアの上で、モジャ公が来るのを待てば良い。  このシャンデリアの導線の強度がどうにも心もとない事は、ここに着いた時にすでに気が付いていた。これを利用しない手はない。 (あいつが驚いて立ち止まった所を狙い撃ちする)  そォら犬が来た。と、ザジは目を凝らす。  絨毯を嗅ぎまわって、ちょうど真下で止まった。  シャンデリアを吊る導線に掴まって、思いっきり後ろ脚に力を込める。ぎしぎしとガラスの塊が揺れる度、ダマになった埃が宙を舞う。  ぶつん、と音がしてザジの身体は急に軽くなった。  そこでやっと犬が顔を上げるがもう遅い。  つんざくようなガラスの割れる音。次いで細かい破片が転がる音がする。  ザジは”その瞬間”を見る事はできなかった。天井からぶら下がった状態のまま固く目を閉じて音だけを聴いていたのだ。  薄く目を開くと、遠い床に落ちたシャンデリアの下にあの犬の姿が見える。 「やったか……?」  半信半疑の呟きが零れる。  引き寄せられるように落ちて行ったシャンデリアに襲われた犬は、恐らくこれまでにないような大きな悲鳴をあげただろう。もっとも、その声はガラスの弾ける音に飲み込まれてしまってザジの耳には届かなかったのだが。  だからだろうか。  ザジは目の前に転がる毛玉を見ても全く安心が出来ないでいる。 (起きるな……。起きるな……)  口には出さずに唱える。  眠っている相手を起こさぬように足音を殺して近づく。  細かいガラス越しにある身体はわずかな呼気もない。完全に停止しているように見えた。 (まだだ、まだ安心はできない)  ちょい、と前足で軽くつついてみる。毛皮はごわついていて、少し暖かい。先ほどまで動いていたからだろうか。  それを数度繰り返して、やっと細く息を吐いた。 「はあ、おっかねえ奴だった」  安堵からか、普段は言わないような事を吐露してしまう。言ってしまってから慌ててあたりを見渡した。こんな泣き言のような台詞を、テツ達に訊かせるわけにはいかないのだ。  周囲にテツ達の気配はない。  そういえば、彼らは人間のいるらしい部屋に忍び込んでいるのだった。物音がしないという事はまだ見つかってはないのだろう。早く迎えに行ってやらなければ。  リベンジを果たしたザジは猛った気分のままで、少し汚れてしまった背中を翻す。足取りはふわふわと軽い。いい気分だ。  がっちゃ、と鈍い音がした。 「!」  反射的に身を竦ませる。  壊れたブリキのおもちゃのようにぎこちなく振り返った先にあるのは、やはり想像した通りの光景だ。  赤い雫とガラスの破片をほろほろと零しながら、胡乱な目をした黒い犬が立ち上がっていた。
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