7人が本棚に入れています
本棚に追加
/49ページ
夢かうつつか、あの男の声がする。
いつもより甲高い、ヒステリックな響きを伴っていた。
「小夜子は、妻はどうした? まだ動ける身体ではないはずだ」
「知りません。病室にでも戻ったのでは」
それきり、母は戻ってこなかった。
眠りから覚めた彼は不思議な空間にいた。
温度を感じない。
光も差さない。
無に近い空間だ。
彼は疑念を抱いた。
身体は?
どこだろう。
― からだは無くなったのか。
彼の問いに反応があった。
外部音声入力装置越しに聞こえてきたのは、あの男の声だ。
「すばらしい。赤ん坊のすべてを電子情報に変換し、移植させることができたぞ。私は天才だ」
「すごいですね、松戸さん。おっしゃったとおりです。遺伝子や脳内の情報だけでなく、肉体を保存しておいたのが良かったのでしょうか」
「そのうち身体もなんとかする」
声だけが聞こえてくる。
男の声は、先日聞いた時よりも興奮気味に上ずっていた。
「なによりも喜ばしいのは、電子情報となったこの子が、真っ先に肉体の有無を気にしたことだ。どれほど演算処理能力の高いコンピューターでも、最先端のAIでも学習できない本能というもの、生命だけが持つ根源的な欲求をこの子は持っている」
不安だった。
肉体がないと何もできないし、身を守るすべがないことに恐怖を感じる。
― 母はどこ? あのゆりかごにもどりたい。
彼は「無」の中で身じろぎをした。
だが動かすべき肝心の肉体が存在しないのだ。
それはあくまで観念上の動きであるはずだった。
「何が起きている? あの子はどこへ行った」
驚いたのは彼の何気ない行動が、松戸と彼の研究員たちを混乱に陥れたことだ。
観察者たちは、彼が端末から忽然と姿を消したと思ったらしい。
彼は収容されていた端末の記憶装置から、身じろぎひとつで隣接する端末へと移動してしまったのだ。
外部マイクしか接続されていなかった最初の容れ物とは違い、新しい端末にはカメラや各種センサーがあり、光や熱などを感じとることができる。
― 目が見えるようになった。
あわてて部屋中のモニターや観測機器を覗き込む研究員、部屋の中央に設置された水槽に近寄る松戸准教授、液体に浸された嬰児、それらがいちどきに視界に飛び込んできた。
ほんの数秒の間に起きた劇的な変化に、彼は困惑した。
最初のコメントを投稿しよう!