|黒い巨人《だいだろぼっと》

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彼女が一歩、近づいてきた。 彼が両手をつかんでいるので、互いの胸がくっつきそうになる。 胸元から立ちのぼる、甘い花の香りが鼻をくすぐった。 「もっと声を落として。他人に聞かれたくないんでしょ、コタちゃん」 梨花は彼を見上げて、ウィンクをしてみせた。 手を離すべきかと考えたが、周囲に聞かれたくない話をするなら、このままが良いと考え直した。 松戸の名は人々の耳目を集めるだろうし、自由になった彼女の手は彼の眉間を狙ってくるに違いないからだ。 「松戸が黒い巨人と一緒にここに来ているなんて、知らなかったんだ」 「情報はそこまで公開されていないから、仕方ないでしょ。……松戸教授ってどういう人なの」 「僕は松戸が大九州大学の教授だということさえ、一カ月前に初めて知ったんだ」 梨花は両手をつかまれたままの体勢で、彼の耳元に囁く。 「だから気持ちが沈んでいたの? このあいだは、『僕の父は育ててくれた伯父の鉄太郎だ。ほかに父親なんていないぜ。フッ』なんて語っていたじゃない」 「からかうのは、やめてくれ。もっと普通の喋り方をしたはずだ」 梨花はそう? と小首を傾げた。 「落ち着いたみたいね。だったら手を離してくれるかな。それとも、このままでいたいの?」 彼女の手を引いて、無理矢理に引き寄せているような格好だった。 握りしめていた手をあわてて離す。 梨花はすぐに後ろへ下がるかと思ったが、意外にも両手を彼の肩に下ろし、うつむいてしまった。 つらいよね、と声がしたように思う。 顔は見えない。 肩に置かれた手がジャケットをつかみ、引っ張っている。 泣いているのかもしれない。 彼女をまた、心配させてしまったのだろうか。 「ありがとう、梨花。もう、だいじょうぶ」 大学生になってから孤独を感じることがなくなったのは、彼女のおかげだ。 小太郎は胸に疼きをおぼえた。 先ほどとは違って、胸が熱くなる痛みだった。 返事はない。 梨花の腕をつかみ引き寄せる。 彼の胸に額をつけて寄りかかる姿勢になった。 肩が上下して、ときおり嗚咽がもれてくる。 小太郎は右手で彼女の頭を抱え、左手で抱き寄せた。 梨花が泣き止むまでずっと、彼は何も言わず花の香りを抱きしめていた。
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