野良猫の記憶

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 郊外に建つ平屋の一軒家は妻が遠縁の叔母から五百万円ほどで購入した。あちらこちらに痛みが目立つ築六十年ほどのボロ家だが水回りはリフォームが済んでいて快適だ。最寄りのJR駅までは徒歩五十分ほどかかるが少し歩いたところにバス停がある。南東に向いた大きめの庭も気に入っている。越してきた当初は大きなビワの樹が一本だけの寂しい庭だったが、いろいろと手を加えなかなかの庭園に造りあげた。  間取りは四K。といっても郊外の古い民家なのでキッチンも六畳ほどある。マンションで言うなら四LDKだ。四つの部屋は全て和室の畳敷きだったが、寝室だけはフローリングに張り替えた。どうしても置きたいイタリア製のベッドがあったからだ。  不眠症の僕のために彼女が寝心地の良いと評判のベッドを選んでくれた。僕の働いていた店で買ったので僅かだが値引くこともできた。本当に寝心地は格別だった。彼女の温もりと香りを感じながら僕は眠りに就いた。心地良い夜と、心地良い朝を一瞬で手に入れる事が出来た。 しかし今はそのベッドも使っていない。そもそも寝室にすら足を踏み入れていない。あの日から一度も。  僕は日がな一日この家で特段することもなく過ごしている。やらなければならない事は山ほどある。だがどれもこれも大したことじゃない。    テーブルの皿と空き缶を流しに運び、シャワーを浴びに浴室にむかう。昼寝あとのシャワーは一日を何時間か長くしてくれる気がして嬉しい。  白の甚平を着てタオルで頭を拭きながら居間の縁側に腰をおろし、薄暗くなった庭を眺めながらマルボロを咥える。     
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