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1.
登山道に入ると、空気は一気に潤んだ。
ひんやりとした山の「気」が頬をなでて流れていく。
昨日から梅雨に入った。
木々は茂り、もう深緑の夏葉になっている。匂いまで濃い。
私は田舎育ちなので、いつもは山を歩くのに怖いと思ったことはない。
なのに、今日は妙に緊張している。きっと初めて登る山だからだ。
足下の草むらが、ざざっと音を立てた。背筋がびくりと跳ねる。
思わず、藤木くんのリュックにつかまる。
「どうしたんですか」
「今、何かいたよね。多分、トカゲか蛇?」
「そんなの、岡本さんちの近所でよく見かけるんでないですか」
からかうように、藤木くんが笑う。
「見慣れてるから、平気とは限らんでしょ」
それで私は、我が家に蛇が入り込んだ話や、夏になると車にひかれた蛇をしょっちゅう見かけることをべらべら話す。
藤木くんとの間合いがわからないのだ。
すると藤木くんは、蛇をつかまえて振り回した武勇伝を披露する。
「そんなことしたら、バチが当たるって!」
岡本さん、ババくさいって、と笑う藤木くんの腕をべしっとたたく。
いつの間にか緊張がほぐれている。
さっきまでの強張りは、藤木くんに対してだったのかと気付いた。
そもそも、何で会社の後輩の藤木くんと二人で、山登りをすることになったのか。
一昨日の飲み会で隣になった覚えはあるが、飲み過ぎて、何を話していたのか全く記憶が無い。
だから昨日の昼、電話に表示された名前を見て首をひねった。
「藤木ですけど、明日の約束、覚えてますか?」
「約束って? 何で私の番号知ってるの?」
そこからですか、と呆れている。何と、文殊山に登る約束をしたらしい。
文殊山は、市街地からほど近い、365mの山だ。
「岡本さんは、白山も登ったことがあるから軽い軽いって、高笑いしてましたよ」
そんなことを豪語していたとは。
藤木くんは、持ち物のことはメールすると言い、迎えの時間を念押しして電話を切った。
私はしばらく呆然としていた。
山登り? 明日?
やっと完全に目が覚める。
私は慌てて登山靴を確認しに玄関に向かった。
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