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M.Y
ある日のバイト終わりのこと。
さあ帰ろう。いつもと変わらない日常に、溶け込もう。そう思った矢先、日常はこの手から滑り落ちていった。
貴女が同じエレベーターに乗ってきた。
僕の左側にのった貴女は、伏し目がちにため息をついた。
こぼれたため息すら、僕のものにはならない。
心に芽生えたひとつの蕾。僕はまだ、花の咲かせ方を知らない。
貴女は男性と話すとき、決まって目線を落とす。おそらく男性慣れしていないのだろう。
不意に、スマホの画面が目に入った。
貴女が気になっている、とバイト仲間でもっぱら噂の、波田とのLINEのやり取りだ。僕がどう頑張っても、貴女をこんな素敵な笑顔にさせることはできない。
沈黙がいたたまれず、気づいたら僕は声をかけていた。
「先輩、4月から大変ですね。国試あるんですよね。」
「そう、もう3月から授業が始まって、すごく大変なの。」
相変わらず目線が合わない。けど、心なしかいつもより声が弾んで聞こえる。もちろん、僕のせいではないけれども。でも、そんな貴女と話せたことが嬉しくもあり、切なくもある。
彼女の心は、僕でいっぱいにはならない。でも、この数秒だけは、かりそめだとしても、二人だけの世界だ。
そんなユートピアも、終焉を迎えるのはあっという間だ。
「チン」、掠れた心とは真逆の軽快な音を立て、エレベーターは、1階への到着を知らせた。
ここから駅までは徒歩5分にも満たない。
周りの人から見たら、初々しいカップルに見えはしないだろうか、そんな図々しい思いとともに、他愛もない話をしながら、駅まで2人並んで帰る。貴女の心も、ぼくでいっぱいになったらいいのに。
駅に着いた。気づけば2分などあっという間で、夢のような時間も終わりを迎えた。
「じゃあ、私こっちだから。お疲れ。」
「あ、お疲れ様です。」
儚い余韻を胸に、家路につく。
さぁ、いつも通りの日常だ。
心に咲いた、ひとひらの花びら。
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