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 翌週、勇はいつものように銀男の診察室へと来院した。銀男の足元には、一匹のゴールデンレトリバーが伏臥の体勢で待機していた。そのゴールデンレトリバーは大欠伸をしながら勇を出迎えた。勇は思わずに尋ねてしまった。 「先生、その犬なんですか?」 「ああ、うちの大学病院でアニマルセラピーを導入してね。僕の心療内科には盲導犬を引退したテンくんが来てくれたんだよ。まだ3日目だけど、もう皆のアイドルだよ」 普通、盲導犬は8歳ぐらいで引退である。しかし、テンは訓練を重ねても人懐っこさが抜けなかった為に3歳で早期の引退となった。 悪い言い方をすれば盲導犬失格の烙印を押された事になる。 「ふーん」 銀男はいつものように距離を取って話をするが、今回は勇の態度がいつもと違っていた。いつもの通り、症状は変わらないと言う話こそするが、その目線は下を向いていた。下と言っても俯くと言う意味ではなく、ただただ、一点をちらりちらりと見ているのであった。 その一点とは銀男の足元で伏せをするテンの姿であった。 「勇くん、犬撫でたいの?」 それを聞いて勇はビクッとした。自分のパーソナルスペースに誰かが入るだけであの時のことを思い出す。それが犬であっても同じだろうと勇は思っていた。だが…… 「はい」 「でもどうしようねぇ。君の近くに入るとなぁ」 その時、テンがスッと立ち上がった。そして、勇の元に駆け寄り、あっと言う間に距離はゼロに詰められた。 「おい」 銀男は焦りを覚え、全身の血の気が引いた。万が一、過呼吸を起こした時のために机の上に用意していた酸素吸入器のスプレー缶に目線を移す。 テンは勇の足元に鼻をすりすりと擦り寄せた。勇に不思議と震えは起こらなかった。 勇はテンの頭を無意識に撫でていた。勇のパーソナルスペースに生き物がここまで入ったのは久しぶりのことである。それどころか勇は笑顔で身を許していた。顔を舐められても嫌な顔一つせずにそれを受け入れていた。銀男はその時、初めて勇の笑顔を見たのだった。 「犬こそ最高の医者だな」と、言いながら銀男は苦笑いをした。  アニマルセラピーが功を奏したのか、勇は見る見るうちに元の明るい少年に戻りつつあった。あまりの変化具合に解離性同一性障害を疑ったが、自分がされたことも嫌々ながら詳細に話す為にこの疑いは消えた。 始めはテンのみをパーソナルスペースに入れることを許していたのだが、数週間後には奈緒美始め、今一緒に暮らす朝倉の一家もパーソナルスペースに入ることを許すようになっていた。
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