過去とこれから

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 茶碗を片手に炊飯器のふたを開けた彼の頭に突然奇妙な思いが浮かんだ。    立ち上る蒸気の下にふっくらと炊きあがった真っ白なごはん。昨晩、母が炊いたものである。しゃもじを使い、丁寧によそう彼。朝食に関しては、決まってこの炊き立ての白ごはんに限るのだ。生きていると言えるのか?本当に?    善紀は顔をしかめた。何か腑に落ちないことがある。食事中も変に落ち着かない様子でしきりに部屋の中を見回す彼。帰る場所がある、俺には。出て行く場所がない。学校にだって、どこにだって。行く場所を失ったというのが自然であろうか。    学生でもなければ、社会人でもない俺にとって、平日の外の世界というものは何の意味をも成さない、空白の世界と言っても過言ではないのだ。そもそも、属する世界というものがない。家族といる時はまだしも、他にどんな世界があると言える。人間関係でもいい。旧友や学生時代の後輩とも疎遠になっているし、別れた彼女とも関係がなくなったし。    二年ほど前から俺の周りには陽がほとんど射さなくなった。暗い海の底で誰に気付かれることもなく、孤独な毎日を生きてきたといってもよかった。    朝食を終え、着替えを済ませた彼はポーチバッグを手に何やら用意を始めた。デジタルカメラにスケジュール帳、カードケース、スマートフォンに財布といったものだ。それら一つ一つを丁寧に扱っていく。全ての準備が終わるとバッグの中身を確かめ、家を出た。    最寄りの近鉄奈良駅までは歩いて15分。暑さの中、階段を降り改札前にまで来るとバッグからカードケースを取り出し、手にした回数券カードを一枚改札機に通し中へと入る。ラッシュの時間を過ぎていただけに人の数はまばらである。     
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