過去とこれから

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 「お久しぶりですね。お元気にされていますか?」控えめな口調の浅野。  「あ、まあな。え~と仕事は?」「出張で奈良へ来てます。まあ、帰って来たといってもいいでしょう。松井さんは?」  踏み込まれたくなかった。現実を直視してなるものか、こんなところで。表情を厳しくする善紀。何も言わない浅野。何かを考えているかのように、終始小首を傾げる動作を繰り返していた。目は善紀の顔から胴体、所持品へと移っていく。落ち着かない気分になる彼。    「大好きな電車ですか。」言ってそっと微笑む浅野。何も言えない善紀。言葉を無くしてしまったかのようですらあった。無理もない。働き盛りの大人一人が(平日のこんな時間に)ホームの端に立ち、行きかう列車や線路を見眺めている姿など、不自然に思われてならないような気がしたからだ。    善紀を見つめる浅野。どうしてここで...知られたくなかった。何としてもあれだけは。    「よい個性の持ち主ですよ、松井さんは。」親しみ深い言い方をして見せる彼女。軽く微笑んでいた。どうすればいいのだろう?この状況を何とか打開してみせたかった善紀は懸命に頭を回転させていた。そして..ああ何で?何でこんな簡単なことを思いつかなかったのだろう?  仕事が休みだって言えばいいじゃないか。全く。休みをもらっている=出勤日でない。これでいけるぞ。口元の筋肉を震わせた善紀。額からは汗が滴り落ちていた。  気のせいからだろうか?ここにきてうまくいかないと思ってしまうのは。きりっとした彼女の視線を避けようとふいに足元へと視線を落とした善紀。踵の低いヒールが浅野の足を綺麗に見せていた。あってはならないことなんだ、これは。何があっても。     
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