ある作家Mの妄言

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ある作家Mの妄言

 午前零時の鐘が鳴る。  鐘とはすなわち、電気ポットであった。けっしてシンデレラの魔法が解ける合図のような、メルヘンティックな代物ではない。  私は丁度読み終えた一冊を炬燵机に置き、丸く歪めたまま固まっていた背筋をぐんと伸ばして、使用三年目のへこんだ座椅子から立ち上がった。茶でも飲んでひと息つこうと思ったのだ。うっすらと茶渋のあとが見え始めたマグに湯を注いで、ラベンダーティーのティーパックをちゃぽんと落とす。僅かに湯が草の色に色づいていくのを眺めてから、恐る恐る席へと戻った。  爽やかな香りを鼻腔いっぱいで楽しむと、蒸気で白く濁った眼鏡を本の横に安置して、ゆっくりとマグの縁に口づけた。草の苦味が僅かに舌先を苛んだ。熱い液体が喉を通り、食道を通り、胃の粘膜全体を宥めるように浸透していくのが感じられる。リラックス効果のあるらしいが、あまり効能にあやかれていない気がした。実はもう今晩のうちに2杯も飲んでいるというのに。  ――足りない。身体のうちから声がする。胃液が煮え滾っている。私を苛んでいるのは、焦燥にも似たある欲だった。  その感情の爆発は、いつも唐突だった。それは一種の麻薬のように私の身体を食い荒らし、日がな一日何も考えられなくなるような、名前をつけられない衝動だ。そういう時、私はいつも本を読む。正確に言えば、言葉を呑み込む。それが唯一の最適解のように思えていた。  机の上に飽き足らず、薄く埃を被った床の上にまで小積んでいる本の、微妙なバランスで倒壊を免れている山々に目を遣って、私はひとつ息を吐いた。別に活字中毒者ではなかったはずなのに、とうとう頭がイカレテしまったらしい。私のこの欲望にとっては、きっと物語性だとか、面白さとか、リーダビリティなどは関係なかった。  もっと、もっと言葉が欲しい。言葉の濁流に身を任せたい。そんな、底を知らない渇望で、息もできなくなりそうだった。己の穴を埋めようと欲する感情だけが体内に満ちている。いったいどうして、私の中で何が起こっているのか、私自身にも皆目見当がつかぬまま、私は丁度目についたひと山の頂の一冊に手を伸ばした。
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