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1.退職
検察官になって、数年。
ふと、気づくと、他人に取っては事件、と呼ばれるものが自分の中で、日常で、しかも流れ作業的になっていることに、気づいた。
その時のショックは大きかった。
こんなことがしたくて、検察官になったのだったか?
未決済の書類の箱の中には書類の山。
次々に運ばれてくる事件。
違う気がした。
そう思ったら、少しも我慢ができなくなって、即、退職の手続きをした。
一応、弁護士事務所からのオファーもあったにはあった。
けれども、それもきっと違うと感じるような気がした。
金のために働くのは多分正しい。
けれど、それだけでは自分は満足はできない。
それは性格だ。
そんな折、知り合いの警察官にたまたま裁判所で会った。
「辻堂さん?」
名前を呼ばれ、辻堂絢人は足を止めた。
いかにも、官僚っぽい、紺のオーダースーツ。
眼鏡を掛けた顔は理知的で、一瞬の印象だけなら、冷淡にも見える。
けれど、声を掛けられ、辻堂は柔らかく、尋ねた。
「今日は、裁判ですか?」
「ええ。あの、検察辞めたって本当ですか?」
法曹界は所詮は狭い世界だ。
この手の噂は結構早い。
しかも、自分が警察官に好かれていたかと言うと…自信はない。
「弁護士とかになられるんでしょうね…。」
いや、ヤメ検の全部が、弁護士な訳ではないと思うが。
「決まっていませんよ。でも、弁護士にはならないつもりですけど。」
「え?次は決まっていないんですか?」
まあ、決まっていない、と言えばそうだな。
そこで、今までの自分にはない勢いで辞めたのだな、と気づく。
いつもなら、慎重に慎重を重ね、検討に検討を重ねて、今後のことを決めるタイプと自認している。
「そうですね。決まっていないです。」
流れ作業は人をダメにする。
最初からそれが分かっていて、の仕事であればいいのだ。
けれど、それなりの希望を持って職についた筈が、いつの間にかそうなってしまっていて、しかも、気づいた時に自分が空洞のように感じるのはなかなか辛いのだ。
と、言うか、この人は何を言いたいのだろうか…。
事件で何度か接点を持ったことがあるが、穏やかな人、という印象だ。
現場経験の長い刑事で、確か、出世とは無縁で長い間刑事として、仕事をしていたはずだ。
「実は、自分の先輩に面白い方がいるんです。会ってみませんか?」
斡旋か…?
「他の方ならこんな事は言わないんですけど、辻堂さんは検察官時代にもいろいろ助けて頂いたし。」
…助けたような覚えはない…。
「きっと、あなたにはご記憶ないと思います。けど、私に取っては違ったんです。斡旋とかそういうことではないんです。そんなおこがましいことではなくて、ぜひ会っていただけたら、と思うような方なんです。」
何だか熱心なその言い方が気に入って、会うことに決め、連絡先を交換した。
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