一郎

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一郎

マリアがヒステリックに洗面所へ向かう。 程なく洗濯機が回る音を聞こえてきた。 一郎は残った食器を念入りに洗うと、先に伏せてあった水切りカゴの食器も全て拭き、食器棚に戻した。 それから、油用のウエットティッシュを取り出し、ガス台周りを拭き始めた。 一郎は、自身を特別きれい好きだとは思っていない。けれど1日の大半をこの家で過ごしている彼は、汚れていく様を目にする機会が多い。 光に反射する、こびりついた油汚れなどを目にすると、どうにも落ち着かない。 床に跳ねた調味料、落ちている髪の毛や角のホコリなども、目に入らなければ気にならないのに、ついつい目線を下げ視界に入れてしまう。 丈二さんは、料理はマメなのに掃除はしないもんな、と一郎は思う。 俺は飯を作ってもらわなくても良い。毎日コンビニ弁当か、菓子パンを食う生活だって構わない。 流しやガス台が汚れるよりマシだ、と一郎は丈二に言ったことがあった。 だから、丈二は無理して料理しなくても良いと。 しかし、丈二はこう答えた。 『人が作った料理を食べていたら、生きていける』と。 「コンビニ弁当だって、人が作ったものだし。生きていけるよ!」 その時一郎はそう反論したが、今なら丈二の言っている意味がなんとなくわかる。 こうして台所を磨き、床にペーパーモップをかけている間、自分は誰かの役に立っていると感じることができる。 丈二の作った飯はいつも暖かい。できたての飯は、ただ空腹を満たすだけじゃない、気持ちも満たしてくれる作用がある。 丈二は『生きていける』と言った。 あの言葉には、どんな意味が含まれているのだろう。 いつか聞いてみたい気もするが、そこまで踏み込む勇気は一郎にはなかった。
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