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血の気が引いていく。早くしないと、本番で音が出せない。バスドラの音が出ないなんて、話にならない。
ペダルをつかんで持ち上げようとすると、なにもないはずのペダルの下に、なぜか冷たく固い感触。次の瞬間、客席にまで響くほどの澄んだ金属音。
コーヒーの空き缶が、足元に転がる。ただただ呆然と空き缶を眺めてしまう。こんな物がペダルの下に挟まれていたら、ペダルが動かないのも当然だ。
「嘘だろ……」
苦しいほどの動悸。漏れた言葉は、俺が言ったのか周りが言ったのか、もうそれも分からない。
椅子の高さもフットペダルも、演奏する上でドラマーにはかなり重要だ。このまま気づかずにいたら、一曲目から演奏が崩れて、とんでもないことになっていた。
「隆宣君、大丈夫か? 椅子の高さ調節して。他は大丈夫みたいだから」
大橋さんにいたわるように肩をたたかれ、俺はまごつきながらなんとか椅子の高さを直した。
「誰がこんな……」
「このことはみんなには黙ってて。念のため、次からは本番までステージから目を離さないようにしてくれる?」
絶句するローディーさんに、大橋さんが硬い声で言う。
あまりにも分かりやすすぎる妨害。それも、当然だけど音楽のことをよく分かっていて、地味でも確実なダメージが与えられるところを狙ってきている。
負けるわけにはいかない。
俺は激しくビートを刻む胸を押さえた。なんとか気持ちを立て直して、きっちり演奏しよう。今の俺にできるのは、それだけだ。
「大橋さん、ありがとうございました」
やっとの思いで、お礼を言う。大橋さんは楽屋の方に戻りながら、
「……実は俺もやられたことがあるんだ。気をつけて」
とひそひそささやいた。驚いて見つめ返す。
「証拠はないけど、たぶんあの人だと思う。あの人、メジャーデビューできなかったコンプレックスがすごいみたいで、人の成功が許せないらしい」
震えるような怒りが湧き上がる。俺はやっと、お前になんかあったらごめん、と泣いた翔一郎さんの、恐怖の大きさを理解できた。
絶対に負けるわけにはいかない。こんな時こそ冷静に、これまでで最高の演奏を見せてやる。
「ちょっとトイレに……」
一人になって気持ちを落ち着かせたくて、男性トイレのドアを開ける。
翔一郎さんが、いた。
「どうした、顔色が悪いぞ? 大丈夫か?」
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