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手を洗っていた翔一郎さんに、なりふり構わず無言で抱きつく。泣きそうになるのを必死でこらえたら、喉が悲鳴を上げるかのように痛んだ。
「……愛してます」
つぶやくと、優しく抱きしめ返される。なにかあったことを翔一郎さんも察したんだろう。しばらく二人とも黙って、お互いのぬくもりを感じあう。
気力が、急速に充電されていく。
「今日は、ベストなプレイをしてみせます」
俺はこの人のために、強くなる。想いを確かめあった翌朝に誓ったように、東京タワーみたいな揺るぎなさと、しなやかさをあわせ持った強さを、身につけたい。
「うん、行こう」
開演時間が近づいていた。見つめあい、うなずきあって、俺達はステージに向かった。
適当に入ったお好み焼き屋は、どうやら人気店だったらしく、混んでいた。壁に茶色に変色したり真新しかったりする芸能人のサインがたくさん並んでいる。土曜の夜だから周りの客も酔ってにぎやかだ。その中で俺は、沈みかけた船のように、黙って座っていた。
ライブ後の食事は、翔一郎さんと二人になりたくないなと思っていたら、大橋さんが声をかけてくれ、救われる思いで誘いに乗った。たぶん今井さんのことを話すつもりだろうけど、それでも翔一郎さんと二人きりよりはいい。
楽しそうな顔、端が破れたビールのポスター、忙しそうに動き回る店員。ソースが焦げる香ばしいにおい、リズムを刻むようなヘラ使いの音。
ぼんやり、眺める。感じる。ライブでだいぶ、精神的に消耗したようだ。
「今日のプレイ、よかったじゃねえか。しびれたぜ」
ライブが終わった後、今井さんが俺に声をかけてきた。どす黒いものが表情の底によどむ、目を背けたくなるような笑顔だった。
ここまでの悪意と敵意をむけられたことは、これまでにない。へどが出るというのは、こういうことかと思った。同時に、この人はまだやる気だと感じて、身震いがした。もうどうしてもダメなら、さっさと逃げて、邪魔されないところに行くまでだ。
飲み物が運ばれてきて、我に返ったように崩れていた姿勢を直す。今日はいい演奏ができたけど、怒りがパワーになっていたから、喜べない。翔一郎さんと大橋さんも、疲れた顔だ。
俺達は静かに乾杯した。うまいものは、気分がいい時に食べるべきだ。心から楽しめなくて、もったいない。
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