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レスペリアン教授という人は、『見えない者』という怪奇的存在である。
光を反射せず透過させてしまう者。
そこに居るのに、周囲の目には映らない者。
所謂、『透明人間』。
元からそうだったわけではなく、はじめは全盲の人間としてこの世に生を受けた、らしい。
それは今から十九年と二ヶ月前、何故か、自分の色素が無くなっていく妄想が盛んになって、いつの間にやら本当に色が消えたのだと本人は語る。因みに、色素が消えるにつれてどういうわけか視力が備わって、何処に何があるのかを把握出来るようになったそうな。
但し、色は未だに識別できないようで、よく梨と林檎を間違えて食べる。焼けてない肉を口に運んで悲鳴を上げたりする。
何故そんな事態になってしまったのか、本人にさえ原因がわかっていないのだが、しかし、教授お得意の考察で『存在と視力が私にとって同価値だった』『神は私に片方しか与えないことにしたのだろう』なんてことを淡々と言っていた。今、色がわからないのは、『それが見えるようになった暁には存在そのものが消える』ということらしいのである。
だから、ということなのか、そうでないのかは、知らないけれど。
レスペリアン教授は、色という概念に大変ご執心のようだ。特に私の顔を見掛けると、大事な家賃の話は避けようとする癖に、色についての話題は常に尽きない。
しかし、私に言わせてみれば、それを他でもない私に語って聞かせることこそ不毛ではないのかと思うのだが、教授の見解はどうも違うようだ。
「いや、だからこそ君なのだ。透明人間を視認できる逸材など、そうそう居るものか」
そう言われても。
窓の外から差し込む陽光が、多彩な色々に塗れ始めた。それを受けて、眩しいな、と木窓を閉めに行く。
私だって、彼が生まれつき色を認識できないことと同じように、生まれつき見えてしまうのだから、話していても仕方がないはずだ。……別に、怪奇や霊的なものが見えるというのではなく、極々現実的な、ただのコンプレックスの話である。
ふと、天井を扇いだ。
他の入居者が言うには、自然を連想させる暖かな茶色が心地好い、とか何とか。けれど、これはどう見ても自然の色ではなく、茶色の隙間に縫い込まれた赤の割合が強めに感じられてしまう。
私はどうやら、他の人が見えない『色』が識別できてしまう、らしい、のである。
『らしい』という表現を用いる理由は、単純に、それについての自覚が薄いからだ。
幼い時分、ただ空というものを見た時に、そこを横切る多彩な赤や橙が『澄んだ青』と言われることに首を傾げていた。『澄んだ』って何だ、どういう基準で物を言っているんだと、学校教師に尋ねたことで、異常性が発覚し、色弱の可能性があるとして病院へ連行され、四色型色覚と診断された。意味がわからなかった。
通常の百倍程度、見える色の情報量に差があるらしいのだ。聞かされたところで「ふうん」としか思わなかったし、寧ろ、何故、自分以外の人間の視覚がそんな単調な作りになっているのかとさえ思う。そう話す医師もまた見え方が違うはずなのに、その百倍という数字は何処から出たのか、甚だ疑問であった。色弱ではなく色強なんだって、と母は目を輝かせて笑っていたが、そんな単語は辞書には無い、なんて突っ込みを入れながら、ただ只管に混乱をしていた。
そうして、落ち着いた頃から、自分が他人と世界を共有できないことへの寂しさが日に日に蓄積されていった。
透明人間がセピア色に見える理由は不明である。
だが、しかし、誰よりも世界の仲間に入れてもらえない透明人間と出会ったことで、何処かに置き去りにされたような孤独感は、幾らか和らいだような気はしているのだ。この広い部屋、狭い空間の中には、色がわからない彼が悩みに悩み抜いて選んだ、極めて色素の薄い壁紙、絨毯、家具の数々が、眠るように並んでいる。彼の目から見た『気の落ち着くもの』は、尽く私のそれと見解が一致していた。この場所は、色に落ち着きがある。何処までもセピア色に佇んで、散らかっているのに、静かな趣があって。
いつも、いつも、うんざりしながらも、彼の長話に付き合ってしまうのは、案外私自身がここを気に入っているからなのかもしれなかった。
「レスペリアン教授。すこし、おかしな話をしても良いかしら」
「ん? なんだい、リオネ君」
そう、あれはいつの日だったか。
レスペリアン教授の出自と、今に至るまでの半生を聞いたときに、ふと考え付いた可能性のことである。
常日頃、思い描いてしまう。
「もし、貴方がその状態に成ったように、私も、変化ができるのなら、貴方に、色を――返してあげられるかしら」
鬱陶しいほど、色に溢れたこの世界。
光ったり、揺れたり、瞬いたり、溶け合ったり、沈んだり、溢れたり。チカチカ、ぐるぐる、犇めいて、時に、目が回りそうになってしまう。
他の人の視界を知らないのに、この視界が嫌だと思うのは、きっと、私の身体に目が合っていないのだ。
十九年と二ヶ月前、彼は透明人間になっていった。
十九年と二ヶ月前、私はこの世に生まれ落ちた。
十九年と二ヶ月前、私がこの世に生まれ落ちたその日に、彼は透明人間になっていった。
初めて彼を見たときの、言い様のない安心感が忘れられない。ここに帰るべきだったのだと、本当はずっと、故郷よりもここに在るべきなのだ、と、惹き付けられた。私は本当はこの人の色を奪って生まれた存在で、いつかは返さなければならないのだと、頭ではなく脊髄で、強い確信を得た。
余分な色を抱え過ぎた私という存在が、彼に帰って、全て溶かしてしまえば、彼は全盲の人でも、透明人間でもない、ただの人間になる。
もし、彼の言う神様というモノが存在しているのならば、そして、彼の身の回りに変化を齎したというのならば、敢えて分かれるようにして生まれた私を元の場所に帰すことくらい、わけはないはずなのだ。現実に、透明人間が存在してしまっているのだから、どんな奇想天外だって『有り得ない』の枠には収められない、そんな気がするのだ。
「大変面白い」
レスペリアン教授は呟いた。
「実に風変わりなプロポーズじゃないか」と。
ぱしゃり、水を掛けられたような気持ちになった。
そして、そのことで、自分が少し熱くなっていたことを自覚して、居た堪れない心地になった。
一体何を言い出すのだ、この人は。
色の話をしていたというのに、いつから色恋の話に転換したというのだろう。レスペリアン教授という人には実に不似合いな言葉である。それに、勝手にこちらがプロポーズをしたことにされて、不本意である。自惚れるような人でないことは知っているからこそ、本気でその世迷いごとを抜かしているのだとわかり、顔が熱くなっていくのがわかった。
「いや、君が私を見つけたときに得た『安心感』とやらだがね。実は、私も君を見たときに似たようなものを感じ取っていたのだよ」
じゃあ、やっぱり、そうなのだ。
神様は意地悪をして、私と彼を二つに分けたのだ。そうに違いない。
というのに、教授はやはり聞く耳を持たなかった。
「私はその感情を、俗に言う『一目惚れ』だと解釈したがね」
さらりと、酷いことを言われた気がしたのだ。
こちらが真剣に悩んでいるというのに、一目惚れだなどという、低俗な言葉で、煙に巻こうとするなんて、とんでもない。いつも、いつも、大事な話ほど、こうしてのらりくらり躱すのだから、それで私がどれだけヤキモキさせられているか、一度でもいいから理解して欲しいものである。
「私は今も昔も、自身を悲観したことなど一度もないよ、リオネ君」
では、そのマイナスの感情までも、私が持ってきてしまったのだ――そういう風に、この人は、考えを巡らせられなかったのだろうか。
普通、目の前に、自分の持っていないものを全て持っている人間が居たのなら、その人間が自分から大切なものを奪ったのだと、そんな思考回路に至るはずで。少なくとも私はそう考えてしまうのである。同じように世界から弾かれたはぐれ者同士なのだから、少しくらいは似たところがあっても良いはずなのに、一体、何を、読み間違えて、一目惚れだなんて。
私には理解ができなかった。
それが、とても淋しかった。
レスペリアン教授は、代わり映えのしない淡白な表情で紅茶を啜っている。彼の周辺に、妙に落ち着いた雰囲気があるのはいつものことだが、事ここに至ってのこと、その紫と青の入り混じった紅茶に、一体どんな効用が有るのかと疑ってしまう。恨みがまじく睨みつけても、やはり素知らぬ顔である。
本当に、どんな話をしていても、変わらない人。
どうすれば真面に取り合って貰えるのか。
考えて、私はひとつ、咳払いをした。
「レスペリアン教授」
思い切って、教授の寛ぐ椅子の正面に立つ。
「――それは解釈違いというものよ」
「おや」
意趣返しのつもりで、その手に持った紅茶を奪い取り、飲み干した。
三つの角砂糖が放り込まれたそれは、吐くほどに甘く、溶け切っていない粒がジャリジャリと口の中に残った。
振られてしまったな、と、透明人間の笑う音がした。
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