無色透明と多彩なひと

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無色透明と多彩なひと

 無色透明という色は、白色で表されることが多いようだけれど、しかし、私はその一般的な感性というものに、多大な違和感を覚えるのである。  語ると、彼はコホンと咳払いをして、頭の上、シルクハットの位置を直しながら言った。 「大変面白い」  それを聞いて、私は、うんざりと溜息を吐く。  貴方には、大抵のものが「大変面白い」で済まされてしまうのでしょう。もう、何度も言ったことであるので、敢えて口に出しはしないものの、彼は私の言わんとすることを理解した上で、気にした様子もなく続けた。 「確かに、無色透明という概念は認識が難しい。何しろ、向こう側に色が無ければ、そこに『有る』ことすら意識付けられないというのに、向こう側に色があるからこそ、『無い』ものと勘違いをされてしまうのだから」 「ええ、そうね。それについてはまた後日、レポートにでも何にでも纏めて形にするのが宜しいんじゃないかしら。ところで、ねえ、レスペリアン教授?」  チカ、と目端に白色が走る。  見れば、カーテンが隙間風に煽られて開いてしまったようだった。丁度良い機会だから換気でもしようかと、木窓を勢い良く開きつつ、私は話を切り出すタイミングを図っていた。 「では何故、無色透明という概念が『白』であるとして世間に馴染んでいるのか。白が『色がない』状態の起点とされるのは何故だろう、だって、別に青でも緑でも構わないではないか?寧ろ、生きとし生けるものの本能としては、白よりも海の青の方がより起点として相応しいはず。何故、白を?実に興味深い問題だよ。君の目に見えているものが、私には理解できないことと同じくらいに」 「ねえ。聞いて頂戴、レスペリアン教授。私は貴方の不透明なウンチクを聞きに来たのではないのよ。今日は家賃……あ、ちょっと!」  途端、本棚の間を縫って、脱兎の如く逃げ出さんとした教授。私はその首根っこを咄嗟に掴み、逃がしてなるものかとぐいぐい引き寄せた。  今日も彼は家賃の支払いを煙に巻いて逃げようとする。  両腕で固めて、抵抗するなら締めますよという意図を込めてクイクイと力を入れたり、抜いたり。そうしていると、ぱたり両腕を下ろして諦めモードに入った教授が、声だけで、威勢よく反発をし始めた。 「無粋! 無粋だよ、リオネ君! 家賃、家賃と、そんなに金貨が大事かね! 俗物ではないか! そんな薄汚れたものがどれほど大事だというのかね! 問題を提示したのは君の方ではないのか!」 「聞かれたから答えただけなのだけれど、それはともかく。薄汚れていようが、何だろうが、金銭の問題を疎かにするのは如何なものかと思うわ。人として」 「ぐう……!」  これで人間を名乗ることに異様な拘りがあるといるというのだから、困りものである。しかしながら、「人として」という単語を使えば大抵の悪さは収められる辺り、この人は大概扱いやすい、とも思う。  レスペリアン教授と呼ばれるこの男。敬称は本人に強要されているだけで、本当にその教職に就いているというわけではない。実際のところなんの仕事をしているのかは不明であり、何処からこの高いマンションの家賃が湧き出てくるのかは甚だ疑問であるが、毎月何だかんだと支払いは済まされているので、まあ知らなくても支障はなかろう、というのが、大家、もとい私の見解であった。  しかしながら、ここで逃してしまうと、その見解も改めねばならぬのである。  顔色は伺えないが、恐らくは蒼白色になっているであろうレスペリアン教授。両腕を上げて降参のポーズを取った。うむ、と解放しようとした矢先に、懲りずにまた駆けようとしたので、今度こそと引っ捕らえて、容赦なく彼の体幹に縄を巻き付ける。手近な椅子を引き寄せて、ぐるぐる、ギリギリと縛り上げると、ようやく諦めをつけた教授は項垂れた。  一番右の下から三番目、と投げやりに位置を示される。ズラリと書物の並ぶ壁一面の本棚、そこに隠れていた封筒から、私は躊躇いなく家賃分の金額を引き抜いてポケットに捩じ込んだ。教授の鼻をすする音が聞こえたけれど、知ったことではない。 「常々思うのだが、リオネ君は女性でありながら些か腕力が強すぎやしないかと……」 「『女性とは斯く在るべし』という価値観を押し付けるのは、紳士として、どうなのかしらね」 「まあ、まあ、それは良いさ。そんなことよりもリオネ君、仕事が終わったのなら、先の話の続きに付き合ってくれたまえよ」  そういって、すとんと自前のウッドチェアに腰掛けると、訪れた時と同じ姿勢で、慣れた手つきで紫と青の入り混じった紅茶を注ぐ。猫舌の彼は、この席につくとき、まず何よりも先にティーセットの準備を整えることが癖ついているのである。独特の香りを振り撒いて湯気を立てるカップに、角砂糖を三つも投入して、それがジワジワと溶けていくのを横目に、教授はコートを脱いで近くの本の山へと投げた。思わず、うぇ、とくぐもった声を上げてしまう。然程苦くもない紅茶に角砂糖三つ……味を想像しただけで胃が荒れそうだ。  見るに耐えず、私は彼が脱ぎ捨てたコートを回収してハンガーに掛け、嘆息した。角砂糖にしろ、コートにしろ、部屋の散らかりようにしろ、紳士を自負する人間が、聞いて呆れる振る舞いである。  この部屋の間取りは、私の部屋と同じ形、同じ広さでありながら、しかし、廊下にも及ぶ本棚と、そこに収まりきらない蔵書の山々の所為で、酷く狭く感じられる。散らかっていると指摘しても、教授は「そこが収納場所なのだよ」と誤魔化して何もしないままであるので、私が手を入れることも稀にあった。  コートを脱いだ教授は袖を捲って、セピア色の肌を空間に晒した。いつもは、普通なら考えられないほどに厚着をして、これでもかというくらい素肌を隠す悪癖のある人だが、どうにも、私の前ではあまり気にするつもりもないのか、最近、こうしてそれを目にする回数も徐々に増えてきたように思える。彼は適当な本を選抜して、テーブルに数冊並べ、まだ砂糖が溶け切ってもいない紅茶に口をつけた。それを見て、またしても私は、うぇ、と言った。  しかし、それにしても。  見れば見るほど『セピア色』だ。比喩ではなく、私の目には、どの角度から見てもセピア色。凡そ人体には有り得ない色をしていて、実に趣深い。  私以外の普通の人間には、『無色透明』に見えているらしいのである。  白が無色透明とされることにも違和感を覚えるが、これについてもまた然り、彼の姿を誰も視認できないという現状が、どうしても私には不可思議に思えてならなかった。  窓の外で、雲が陽光を覆ったようだ。  しかし、他の色が次々に顔を変えていくことに対して、教授だけはそのままの姿を保っていた。
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