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栄三郎はかつて長州藩の志士であった。当時まだ若輩の徒であったが血気盛んな気質と剣の腕を買われ、幕末の動乱を西へ東へと走り抜けた。政治にはあまり強くなかったため維新後は政治家を辞して大蔵官僚となり、一代でそれなりの財を築いたのだった。その後、退官してからも實業家として華々しく活動し邸宅を空けていることも多かったのだが、過労が祟ったのかある日突然倒れ、この度検査と静養のために入院とあいなったのである。
敏雄は栄三郎が歳を行ってから生まれたため、物心ついた時には父はあまり家にいなかった。そのため、父をどこか恐ろしいよふに感じる心があったのだ。時折栄三郎が語る維新の話も敏雄にとってはもはや昔話としか思えず、父がかつて髷を結って刀を振り回していたなどとはついぞ想像つかなかった。
このように敏雄と栄三郎の間には見えない壁のようなものがあったのだが、同じように歳の離れた兄にも敏雄は距離を感じていた。辰吉も敏雄同様維新後の生まれだが、敏雄と違って堅實な男であり父の跡を継いで官僚となった。近所の別宅に妻子と共に住んでいるのだが、頻繁に行き来する美彌とは対照に敏雄はほとんど顔を出さず辰吉から会いに来ることもなかった。母はとうに亡くなり、家族への息苦しさもあって敏雄は創作へ没頭した部分もある。
奇妙なことだが、その兄が栄三郎の退院前日に突然訪ねて来た。
「調子はどうだ」
「特に変わり御座いません」
来客用の茶室で歳の離れた兄弟は向き合う。兄は相変わらず几帳面に櫛を入れた髪の形をしている。歳は四十を過ぎており、黒縁の丸眼鏡の奥には爛々と鋭い目があった。
「相変わらず売れておらんのか」
「御兄さんにはわからんでしょうが、人に浪漫を与えるのはそう容易い事ではないのですよ」
「お前の雑誌だと思うが、この間美彌が持ってきたぞ。猫の話を見せてくれてな。俺は小説というものはとんと読まないが、あれはなかなか面白かった」
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