或ル書生ノ進退

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 『我輩ハ猫デアル*2』のことだろう。あの話を美彌はいたく気に入っていた。それにしても、美彌が勝手に自分の本を持ち出して時折()んでいるのは知っていたが、まさか兄の家に持ち込んでいるとは露知らず敏雄は面食らった。兄と美彌の言外(げんがい)の親しさに、敏雄は僅かに嫉妬心(ジェラシィ)を感じた。 「美彌によると、あの作家はあれが處女作(しょじょさく)という。お前、あァいうのは書けんのか」 書けないから苦労しておるのだ。敏雄は腹の中で毒づいた。 「いっそ、誰かに弟子入りでもしたらどうだ。幸田なんたら*3とかいう作家なら俺のツテに当たればコネがあるはずだ。俺が推薦状を書いてやってもいい」  やめてくれ、赤ッ恥をかかせるつもりか。そう叫びそうになるのを何とか堪えると、敏雄は用件は何かと切り出した。 「お前も知っての通り親爺(おやぢ)の事だ」 「悪いのですか?」 「ウム。醫者(いしゃ)曰く(キャンサァ)ではないかとのことだ」 「はァ、キャンサァですか」  帝國大学を出ている敏雄はそれが蟹を意味するギリシア語であることを知っていたが、何故父の体に蟹が関係あるのかと(いぶか)しんだ。同じく帝國大学を敏雄より優秀な成績で出た辰吉は、蟹のことではないぞと釘を刺す。 「独逸(ドイツ)語ではクレブスと呼ばれている立派な病気だ。かつて岩倉公*4もかかった病でな、体の中にデキモノが出来てそれが大層悪さを働くらしい」 「その(キャンサァ)とやらは一度かかったら治らんのですか?」 「難しい。体の外なら切り取れるが、何せ腹の内だ」 「……もう長くはないのでしょうか」 「発見が早かった。早急に悪くなりはしないが一年もつかどうかと言った所だ」 「そんな」 「親爺(おやぢ)には単なる神経衰弱から来た胃弱だと言ってある。美彌にもまだ言わないでおけ。アレはすぐ顔に出る。お前もいつまでも物書きの真似事をしておる場合ではないぞ。俺は親爺のように甘くない。まともに金を稼げんのなら叩き出すから覚悟しておけ」  兄の帰宅後、敏雄は立ったり座ったりと落ち着きなく動き回っていた。父の余命も勿論衝撃だが、敏雄にとって自身の進退は更に重要な事だった。兄は厳格な男だ。このままでは本当に追い出されかねない。
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