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「敏雄さんたら、今日は随分忙しないのね。明日御父様が帰ってくるからかしら」
そう言って笑う美彌を見て、ふと敏雄は美彌を娶ったらどうかと考えた。兄は自分には酷薄だが美彌には滅法弱い。自分は追い出せても美彌は追い出せないだろう。
「美彌、もしお前が嫁に行きそびれたら俺と結婚したい?」
「嫌よ。敏雄さん、ちッとも売れないんですもの。ちゃんとお金を稼げる人でないとアタシ困るわ」
「手厳しいな」
「敏雄さんは不孝者だもの。御父様に散々助けて頂いたのに、未だ何のお返しもしてないわ」
「いづれは大作家になって恩返しをしてみせるさ。今は冬の時期なだけだよ」
「その冬はいつ明けるのかしら。冬が長すぎて木がみんな枯れちャうわ。いくら退院するとはいえ、まだ完全に治っておられないのでしょう?」
「なに、ただの神経衰弱だ。大したことはないよ」
だが美彌は急に声を落とした。
「ねェ敏雄さん。将来大作家になることがそんなに素晴らしいこと?」
「何を言ってるんだ。有名になって金も入る。こんなに孝行なことがあるか」
「もし、もしもよ。小父様の神経衰弱が良くならなかったら」
「止せ」
「でも、万に一つもないと言えないぢゃない? 五年後、十年後に有名になるより今すぐ何か職について誰か奥さんを貰って、出来るなら孫の顔を見せるのが親に対する一番のお返しじゃないかしら」
「…………」
美彌の眼差しは真剣だった。敏雄は珍しく言い返さずに口を噤む。
「結婚したいか聞いたけれど、敏雄さんがまともな仕事に就くならアタシ考えてあげても良くてよ」
「嫌ではないのか」
「敏雄さんの事は嫌いではないし、アタシだってお世話になった小父様に恩をお返ししたいもの」
「お袋が死んでからずっと身の回りの世話をしてるじゃないか」
「そんなものは当たり前過ぎてまだまだ足りないわ。アタシも歳だし、病身でいらっしゃる小父様がアタシの縁組でやきもきされたら身の置き場がないもの」
「そうか」
それっきり、敏雄は部屋に戻ると机に向かい考え事に耽った。余命幾許かの父に自分は何をしてやれるのだろうか。實子ではない上に事情を知らぬ美彌の方が遥かに父を慮っていた。そのことに気恥ずかしさを覚えながらも、未だ大作家への憧憬も消えずにいた。
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