或ル書生ノ進退

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 翌日、父が退院して戻ってきた。栄三郎の退院を祝い、美彌は栄三郎の好物の亀を夕食に用意した。それまでは何ともない一日であったのだが、夕食の後、栄三郎は敏雄を書斎に呼んだ。いつもは大柄で恰幅(かっぷく)の良い父に敏雄は言いようのない威圧感さえ覚えていたものだが、病と知るや途端に顔色が悪くやつれているように見えてきた。 「お前はまだつまらぬ物を書いているのか」 「つまらぬ物を書いてお金が貰える仕事が世の中にはありますので」 父の皮肉に敏雄も皮肉で答える。 「全く、お前はいつまでふらふらしておる。お前と美彌のことを思うと(わし)は死んでも死に切れん」 「たかが神経衰弱です。精の付く物をお食べになって安静にしていれば治ります」 「いや、きっと(なが)くない」  いつもの辣腕(らつわん)ぶりはどこに行ったのか、父は珍しく気弱だった。 「御父さん、病は気からというでしょう」 「最近昔の夢をよく見るのだ。先に逝った同胞(はらから)達が呼んでいるのやもしれん」  敏雄は閉口した。父は己の病名を知らないが、己の身體(からだ)のことは(わか)っているのだろう。 「お前にこれを渡しておく」 「これは」 父が渡した封筒を開くと、そこには屋敷や土地の権利書があった。敏雄は驚愕に目を見開く。 「それだけあれば、無駄遣いをせねば何とか暮らしていけるだろう」 「兄さんは知っているのですか?」 「辰吉には今度(わし)から言っておく。あとは生きてる間に美彌の嫁ぎ先を見つけてやらねばな」 「何故私にこれを?」  父は常日頃、敏雄を働きもせず遊んでいると兄同様に辛辣(しんらつ)であったはずだ。 「仕事をしないお前に呆れていないと言えば嘘になる。……だがな、こうも考えるのだ。誰かの考えた馬鹿げた夢物語を民草が(たの)しんで娯楽に出来るのは、世が泰平だからこそ。(わし)らはそう言った世の中のために戦ってきたのだと」 「…………」  敏雄は父の眼の奥底に、自分がイマジネェションしたどんな(いくさ)浪漫(ろまん)や歴史よりも濃密な物語を垣間(かいま)見た。それは胸に迫るリアリティを持ち、その全てが眞實(しんじつ)だった。自分はそれに勝るものをこれから書けるのか。敏雄は胸が苦しくなった。
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