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「お前の気楽な姿は儂らが勝ち取った維新の証でもある。だから、物書きをやめろとは言えん。今後もお前のやりたいことをやればいい。ただし、世間様に迷惑だけはかけるでないぞ」
そう言うと父は一息ついて葉巻を取り出したが、急に険しい顔になって腹をさすった。
「御父さん、大丈夫ですか?」
「単なる胃弱だそうだ。薬を飲めば良くなる。気にするな」
「…………」
敏雄は文学部だったため癌がどのような病気で栄三郎の病状がどの程度悪いのか皆目検討が付かない。ただ、栄三郎自身が感じているように敏雄も栄三郎はそう永くはないことを悟っていた。
不思議なことに、健在だった時にはあれほど遠く、場合によっては疎ましくすら感じていた父の存在が今の敏雄にとっては至極身近であった。そして父の存在が近くなることによって、敏雄は自分がどれほど愛されていたのか、親の深い庇護を受け續けていたのかを理解した。
敏雄は何としてでもこの恩を返さなければならないと思った。それが出来ないようであれば、もはや自分は日本人でも男子でもあるまい、と。
敏雄は書斎から戻ると、歌を詠んだ。
望めども掴むに能わず
彼の青雲
父老いてまで
吾は慾さじ*5
――それを以て絶筆と爲し、敏雄は書きかけの原稿を全て燃やした。
[注釈]
*1ホトヽギス…言わずとしれた有名俳句雑誌。小説も載っており、夏目漱石は同誌でデビューした。
*2吾輩ハ猫デアル…夏目漱石のデビュー作。元は読切だったが好評だったため連載になった。
*3幸田なんたら…幸田露伴のこと。明治後半の文壇は尾崎紅葉と合わせて紅露時代と称された。
辰吉は文学に疎かったため、露伴が如何に大物か知らず適当に知っている作家の名前を挙げた。
*4岩倉公…岩倉具視のこと。日本初の癌告知を受け明治16年咽頭がんで没。
*5青雲と盛運、老いてと置いてを掛けている。青雲は地位や名誉の暗喩。
どんなに望んでもあの名誉は掴めなかった(自分には運がなかった)
だが老いた父を放ってまで私はそれを欲しいとは思うまいの意。
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