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彼女がその男性に出会ったのは、この桜の下なのだという。なんとなしに眺めていたら、声をかけられたのだと。
「お好きなんですか?桜」
好きになりようがない。彼女はその花を見たことがないのだから。
彼は、彼女に自身の描いた桜を見せてくれた。毎日会いに来ては、色んな話を聞かせてくれた。やがて、彼は彼女の絵を描くようになった。
長い冬が終わる頃、別れの時が来た。
「一緒に来ると、言ってくれたの」
ただ黙って、彼女の話を聞く。
話してくれるようになるまで、時間がかかった。もうあまり、時間がない。
「でも……今日はもう、ここまでにしましょう」
「え?」
「ほら、もう夕暮れ。暗くなったら危ないわ」
慌てて辺りを見る。茜色の空。端の方はすでに藍色に染まっている。いつの間に。
「でも……」
「大丈夫よ」
大丈夫なんかじゃない。
そう、言いそうになるのをどうにか飲み込む。
「わかり、ました。また明日来ます」
宿に戻る足は、ひどく重い。時間がないのに、ただ話を聞くことしかできない。
一つ電話をし、それから湯船に浸かる。皮膚がヒリヒリした。思っていた以上に身体は冷えている。どうすればいいのだろう。
窓の外ではまた雪がちらついている。この雪が止まらない限り、春は来ない。でも、その時は。
勢いよく、顔に湯を浴びさせる。
ここで挫けたらダメだ。もっと、きちんと話を聞けば、突破口が見つかるかもしれないのだから。
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