第03章 わっちは、もう人ではござりんせん

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くぐり戸に声を掛ける。 「花魁、お体はもう大丈夫なんで?」 どうやら、妓楼では醜聞を恐れ、わっちのことを療養中にしているらしい。 「まだ本調子ではないでござりんす。ささ、通しなんし」 戸番の男は、あっさりと騙された。 首尾よく、遊郭のくぐり戸を抜ける。 正面の格子戸には勿論、誰もいない。 裏木戸の様子を窺う。 流石に、うちの見世の者は、わっちが心中で死んだと知っている。 鉢合わせると面倒だと想われた。 そういえば、棺桶から出た時、今までとは比べ物にならない力が出た。 裏木戸の僅かな引っ掛かりに指を掛け、力を入れる。 (かんぬき)もろとも、容易く開いてしまった。 中の気配を窺い、着替え等を調達していく。 寝静まった座敷。 情交の気配のある座敷。 聞こえてくるのは、床ずれ・布ずれと股同士がぶつかる音。 あとは、客達の息遣いと果てる声。 遊女達は、行為の間、声を発することはない。 感じるのは遊女の恥、そう訓練を受けてきたからでござりんす。 朱音と呼ばれていた頃の自分の座敷付きの部屋。 まだ、他の花魁が使用していなかったのは幸運だった。 着替えの他、(かんざし)煙管(きせる)白粉(おしろい)・紅といった化粧(けわい)道具。 適当に風呂敷に包み、ふと鏡を見る。 あの夜、男に背中から肩を抱かれ、見ていた鏡だ。 鏡に映るのは、わっちただ独りきり……。 よくよく見ると、左の瞳は白が多くなり、中心に朱の点が輝いていた。 わっちは、もう人ではござりんせん。 夜明け前、誰にも見つからぬよう、遊郭を抜け、東海道へ向かう。 あれ程、嫌な場所ではあったのに、後ろ髪を引かれるのはなんざんすね? おさらばえ。 わっちは、もはや戻ることはできささんす。 この見世にも。人の道にも。 1cb8d1d4-debe-4dfa-89fa-298129a568cc
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