右の目の海

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 おえんは死出の旅の道すがら、ある男の事を思い出していた。その男の事は少女の頃の淡く苦い初恋の思い出として、年老いてからも時折ふっと胸の内を掠める事があった。  その男は、旅の薬売りだった。薬売りは、山の奥にあるおえんの村に年に二度か三度、姿を現した。村の家を一軒一軒回って薬を置いていくのだ。  少女だったおえんは、浅黒く日に焼けてハキハキとしたその薬売りの青年に密かに心惹かれていた。そして、薬売りが商いついでに家の者に語って聞かせる旅の話に傍らで耳を傾けながら、見たこともない土地の風景を思い描いては胸をときめかせた。  中でも取り分けおえんの気持ちを引くのが、海の話だった。薬売りは山を下った後、海沿いの街道を旅して五、六ヶ所の漁村を廻っているのだという。海というのは、おえんの住む村の近くにある湖よりもよっぽど大きいものらしい。どこまでも水が広がり、珍しくて美しい魚も沢山穫れるのだそうだ。 「岬のなぁ、難所を越えるのが大変でなぁ」と、薬売りは語る。一歩踏み外せば、たちまち海に転がり落ちて命がないような、切り立った崖の細い道を越えて歩かなければならないのだという。  おえんは、そんな怖ろしい難所を越えてまで旅をして商いをする薬売りがより一層、頼もしげに思えた。  おえんが十五になった時、嫁入りが決まった。嫁ぐ先は山をひとつ越えた先にある村だった。知らない村に行き、見ず知らずの男の元に嫁がなければならない……おえんの心は不安に塗りつぶされた。そして、いつも思い出すのはあの薬売りの事だった。 ――今度、薬売りさんが来たら私の想いを打ち明けよう。そして、あの人の女房になろう。私もこの村を出て旅に出るのだ。あの人と一緒に。  おえんは少女らしく、そんな風に思い詰めていた。旅の荷を背負い、青く広々とした海に向かって歩く若者と自分の姿。そんなものを心に思い描きながら、薬売りが来る季節を待ち焦がれていた。  しかし、なぜかその年から薬売りはふっつり村に姿を見せなくなった。  やがて時は瞬く間に過ぎ、結局、おえんは、決められていた通り山向こうの村に嫁いだ。  その後、あの薬売りを見かけた事はただの一度もなかった。岬の難所を通りかかった時に足を滑らせて海に落ちてしまったのだという噂も聞いた。しかし、本当のところは分からないままだった。
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