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右の目の海
「この川は海に繋がっているんかねぇ?」
ずっと黙りこくって、左之吉に手を引かれるままに歩いていた老女がぽつりと呟く声が聞こえた。
左之吉は振り向いた。おえんという名の老女は、何か真剣そうな眼差しで三途の川の水面を見ていた。
「さあなぁ……」
左之吉は曖昧に首を傾げる。
「三途の川の渡し場より先には俺は行った事がねぇから」
そういえば、この川がどこに繋がっているかなんて一度も考えた事なかったな、と左之吉は改めて思った。もっとも、死人の魂をこの川の対岸……冥府へ運ぶだけの役割の下っ端死神には、知る必要もない事なのかもしれないが。
山間の寒村で、子供達や孫、ひ孫に見守られてひっそり息を引き取ったおえんを、左之吉は、今、あの世へ連れて行くところであった。
「長い事、生きたから」
おえんは、生き終えた人生を思い起こすように目を細め、静かな声で続けた。
「もう何も思い残す事はないんだけども、たったひとつ……生きている間に一目だけでも海が見てみたかったねぇ。私は生まれてから死ぬまで、山から一歩も出ずに過ごしたから海を見た事がないんだよ」
寂しげな声だった。思い残す事はない、という言葉とは裏腹に、おえんは何かを深く悔いているように見えた。
「海、か……」
左之吉はふと立ち止まった。この道をずっと進めば、やがて三途の川の渡し場に出る。そこで、おえんを渡し船に乗せてやれば、死神である左之吉の仕事は終わりだ。しかし、急ぐ事もあるまい。
「ちっと寄り道をしよう。その願い叶えてくれる男を知ってるぜ」
左之吉は何か思いついたように、おえんを見てニヤリと笑った。
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